安政元年(1854年)、ペリー来航を契機に幕府は日米和親条約を締結し、4年後の日米修好通商条約締結を経て安政6年(1859年)に横浜を開港しました。
それまで80戸ほどの漁師小屋が並ぶだけの小さな漁村に過ぎなかった横浜村は、開港をきっかけに劇的に近代化し、瞬く間に世界とつながる玄関口へ変貌しました。
今回は開港の中心地を目指しながら、今も残る歴史的建造物や記念碑を訪ねてまわります🚶➡️

JR関内駅の南口をスタートします。
ここはプロ野球「横浜DeNAベイスターズ」の本拠地 “横浜スタジアム(通称:ハマスタ)”の最寄駅とあって、ベイスターズブルーに染まっています!
横浜公園

日本大通りと接する横浜公園は、明治9年(1876年)に開園した日本で初めての“近代的な都市公園”です。
(厳密には山手公園の方が古いのですが、日本人にも開放された公園としては横浜公園が日本最古)
開園当初の横浜公園は「彼我公園」(“外国人=彼”と、“我=日本人”が共に利用できる公園という意味)と呼ばれていました。
明治42年(1909年)に「横浜公園」と改称されました。
プロ野球はシーズンオフの時期ですが、この日はファン感謝イベントの開催日とあって、大勢のベイスターズファンで賑わっていました。
現在、横浜公園の敷地の約半分が横浜スタジアムなのです。

そんな横浜公園の一角に「彼我庭園」という日本庭園があります。

彼我庭園は池泉回遊式庭園で、池を中心に回遊路を巡らせて歩きながら景観を楽しむことができます。


「横浜スタジアムの隣にあるとは思えませんね」って言いたいところですが、どうしてもライトスタンドが見えてしまうところもあります・・😅
まさか、場外ホームランは飛んでこないと思いますが💦

まだ色づき始めでしたが、紅葉もキレイですね 🍁

「蹲踞(つくばい)」という、茶室に入る前に手や口を清めるための設備があります。

「水琴窟」という日本庭園でよく見られる音を楽しむ装置です。
地中に埋めた甕に水滴を落とし、その反響音を楽しむ仕掛けになっています。

丸石を敷いた遣り水の流れを見ると清らかな気持ちになりますね😌

横浜公園の入口付近には、イギリス人土木技師「リチャード・ヘンリー・ブラントン」の銅像が建っています。
慶応4年(1868年)、明治政府に灯台建設主任技術者として雇われたブラントンは日本各地に灯台を建設し、“日本灯台の父”とも呼ばれています。
また、来日してから約7年半の間、横浜を拠点として活動したブラントンは横浜の都市計画にも深く関わり、横浜公園や日本大通りの設計や吉田橋(日本初のトラス鉄橋)の架設、水道や電信の整備など、“近代都市・横浜”の骨格を形づくった立役者とも言える人物です。

横浜公園の入口にある煉瓦と石の構造物は、日本最古の都市公園としても歴史を今に伝えています。
日本大通り

「日本大通り」は、1866年の横浜大火を契機に、防火対策としてイギリス人土木技師H.R.ブラントンによって設計された日本初の西洋式街路です。
当時は通りを挟んで日本人居住地(左側)と外国人居留地(右側)に分けられていました。
「横浜公園」と開港当初の波止場「象の鼻波止場」を結ぶ全長約430mの道路沿いに歴史的建造物が建ち並び、異国情緒ある街並みを楽しむことができます。
旧大蔵省関東財務局 横浜財務事務所

昭和3年(1928年)竣工で、設計は近代建築の巨匠・渡辺節。
元は日本綿花横浜支店として建てられ、のちに関東財務局横浜財務事務所や労働基準局として使われました。
横浜市認定歴史的建造物にも登録されています。

現在は「THE BAYS(ザ・ベイズ)」という横浜DeNAベイスターズが運営する“スポーツ×クリエイティブ”をテーマにした複合施設になっています。
旧横浜三井物産ビル

明治44年(1911年)竣工で、設計は遠藤於菟と酒井祐之助。
日本で最初の全鉄筋コンクリート造のオフィスビルで、近代建築の先駆けとされています。
関東大震災でも倒壊せず、鉄筋コンクリートの有効性を証明しました。

2013年に「KN日本大通ビル」と改称され、現在もオフィスビルとして活用中です。
横浜地方裁判所

昭和5年(1930年)に竣工した旧庁舎は、県庁と並ぶ戦前横浜の官庁建築の代表作でした。
設計は大蔵省営繕管財局によるもので、スクラッチタイル張りの外壁など昭和初期における公共建築の典型的な意匠を特徴としていました。
平成13年(2001年)の新庁舎の建設に伴い、低層部に旧庁舎の外観が復元されました。

横浜地方裁判所は平成10年に横浜市認定歴史的建造物に指定されています。
電信創業の地 記念碑

横浜地方裁判所の隣に建つ横浜地方検察庁の前には「電信創業の地」記念碑が建っています。
明治2年(1869年)12月25日、この地にあった横浜電信局と東京電信局の間で、日本初の電報の取り扱いが行われました。
記念碑には電波を模したデザインが施され、目に見えない電波の力を可視化しています。
旧横浜商工奨励館

旧館は昭和4年(1929年)に竣工。設計は横浜市建築課。
関東大震災からの復興事業として建てられ、横浜の商工業振興と貿易発展の拠点となりました。

旧館を保存・改修し、平成12年(2000年)に新館を増築して再生された複合施設です。
同時に旧横浜商工奨励館は「横浜情報文化センター」に改称され、日本新聞博物館(ニュースパーク)や放送ライブラリーなどが入居し、情報・報道・文化の拠点としての役割を担っています。

旧館部分は平成11年に横浜市認定歴史的建造物に指定されています。

日本新聞博物館前にある「新聞少年の像」は、新聞発祥の地・横浜にふさわしく、新聞配達の歴史とその担い手たちの姿を後世に伝えています。
神奈川運上所跡・神奈川県庁本庁舎

1859年(安政6年)、日米修好通商条約など「安政五カ国条約」に基づいて開設された神奈川運上所は、日本で最初の運上所(税関)でした。
ここで関税の徴収、貨物の監視、外国人居留地の整備などが行われ、日本の開国と近代化を支える要となったのです。
しかし、慶応2年(1866年)の大火で被災し、翌年には日本初の石造り洋風庁舎の横浜役所となりました。
その後は明治政府に引き継がれ、横浜税関、神奈川県庁へと変遷していきます。

1928年(昭和3年)に竣工した神奈川県庁本庁舎は、日本趣味と洋風建築が調和した和洋折衷のデザインで、国の重要文化財にも指定されています。
また、「キングの塔」の愛称で親しまれ、横浜税関の「クイーン」、開港記念会館の「ジャック」と並ぶ『横浜三塔』の一つです。

6階には歴史展示室があり、歴代の県庁舎や建物の変遷を模型や写真で紹介していたり、屋上展望台からは横浜港の名所が一望できます。(開庁時間内であれば無料で見学可能)
横浜開港資料館(旧英国総領事館)

昭和6年(1931年)に英国総領事館として建てられ、昭和56年(1981年)から横浜開港資料館として使われています。
英国工務局による設計で、18世紀のジョージアン・スタイルと呼ばれる都市邸宅を思わせる優美なデザイン。
経済産業省が認定する近代化産業遺産であるとともに、横浜市有形文化財に指定されています。

横浜開港資料館の敷地は、嘉永7年(1854年)に日米和親条約が締結された歴史的な場所です。

資料館の中庭にある玉楠の木は、江戸時代からこの地にあり、ペリー提督の随行画家ハイネが描いた「横浜上陸の図」にも描かれています。
※この玉楠の木は、関東大震災によって幹の部分を焼失したが、残った根から新たに芽が出て現在の姿になりました。

なお、横浜開港資料館の展示内容はとても充実していますが、入館料は大人200円と安価で、展示室もコンパクトなので気楽に立ち寄ってみることをお勧めします。(特別展示開催中の入館料は500円)
外国郵便創業の局(横浜港郵便局)

日本大通りに戻って、横浜開港資料館の二軒隣の横浜港郵便局は、一見普通の郵便局ですが、実は「外国郵便創業の局」という歴史的な郵便局です。

明治8年(1875年)1月5日、この地で日本初の外国郵便の取り扱いが始まりました。
当時、日本国内の郵便制度はすでに始まっていましたが、外国とのやりとりは各国の在日外国郵便局が担っていました。
しかし、日米郵便交換条約の締結により、日本の切手を貼った手紙が横浜港郵便局(当時は横浜郵便局)を通じて海外に届くようになり、通信の主権を確立する大きな一歩となりました。

横浜港郵便局の前には外国郵便開始八十年の記念ポストが設置されています。
みなと大通り
日本大通りの北側を平行して走る「みなと大通り」に寄り道していきましょう🚶🏻➡️
横浜市開港記念会館

「横浜市開港記念会館」は横浜開港五十周年を記念し、市民から寄付を募って建設された公会堂建築で、大正6年7月1日の開港記念日に開館しました。
時計塔の高さは約36メートルで、「ジャックの塔」の愛称で親しまれ、神奈川県庁・横浜税関と並ぶ『横浜三塔』の一つに数えられています。



赤レンガに白い花崗岩を縞模様に入れ、建物の隅部に高塔(時計塔)や角ドーム、八角ドームを配するほかに尖塔や屋根窓を各所に設けて意匠を凝らしています。
大正12年の関東大震災で屋根と内部を焼損したものの、昭和2年(1927年)に再建されました。
昭和2年の再建時に省かれたドーム部が平成元年に再建されると同時に国の重要文化財に指定されました。
「横浜商工会議所 発祥の地」と「横濱町会所跡」

横浜市開港記念会館の敷地内には「横浜商工会議所 発祥の地」碑が建っています。
明治13年(1880年)、この地に「横浜商法会議所」が設立されました。
これは、外国人商人に対抗し、横浜の日本人商人たちが自立と結束を目指して立ち上げた組織で、のちの横浜商工会議所の前身となる組織でした。

元々この地には明治7年(1874年)に竣工した町会所があり、「史跡 横濱町会所跡」の石碑が建っています。
建物は石造2階建てで、屋上に時計塔があり、横浜の名所だったそうです。
町会所は横浜の行政施設であると同時に、日本人商人たちが集まって意見を交わす場でもありました。
開港後の横浜の自治と経済の中心地として、その急速な発展を支えた歴史的な場所と言えるでしょう。
「岡倉天心 生誕之地」碑

横浜市開港記念会館の敷地内には「岡倉天心 生誕之地」碑も建っています。
岡倉天心は東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)の設立に尽力し、日本美術院を創設した近代日本における美術史学の第一人者と言える人物です。
岡倉天心の父は生糸貿易を行う商館の支配人であり、横浜が開港して間もない1863年にこの地に生まれた天心は、幼い頃から外国人と接する機会が多く、国際的な感受性を身につけたと考えられます。
開通合名会社(日本人商社)の煉瓦遺構

横浜市開港記念会館がある県庁前交差点の一角にコインパーキングがあり、その隅に唐突に現れる煉瓦のアーチや窓枠の遺構は、明治時代に建てられたと推定される「開通合名会社(日本人商社)」の社屋の一部です。

関東大震災で大部分が倒壊したにもかかわらず、煉瓦と石を組み合わせた外壁の一部が震災後の復興建築の内部に取り込まれる形で奇跡的に保存されていたのです。

平成26年(2014年)、現代建築が解体される際にこの煉瓦壁が発見され、所有者の意向により現地に保存されることになりました。
まるで土の中から掘り出された化石のようですね。
開港広場公園


安政元年(1854年)2月から3月にかけて、日米代表が横浜村の海岸で会見し、日米和親条約が締結されました。
約200年続いた鎖国が終わり、日本が世界に向けて扉を開いた瞬間を象徴する場所として、地球儀を模した記念碑が建てられています。
なおm、歴史的舞台となった応接所は神奈川県庁の付近になります。

すぐ隣には横浜開港資料館や横浜海岸教会があり、どちらも横浜の国際都市としての歩みを物語る重要な建築です。
山下臨港線プロムナード

開港広場前交差点を渡って、大さん橋方面へ向かいます。

道路の上に架かる遊歩道が「山下臨港線プロムナード」です。

「山下臨港線プロムナード」の橋脚部分には明治43年(1910年)頃の横浜港が描かれています。

こちらは明治3年(1870年)頃の横浜港の絵です。
象の鼻防波堤がしっかり描かれていますね。
この絵の左側の階段を上がって「山下臨港線プロムナード」を歩いてみましょう。

「山下臨港線プロムナード」は、旧国鉄の貨物支線「山下臨港線」の廃線跡を活用して整備された全長約500メートルの高架遊歩道です。
かつては横浜港駅から山下埠頭駅まで貨物列車が走り、横浜港の物流を支える重要なルートでした。
開放感ある遊歩道からは、大さん橋・象の鼻防波堤・赤レンガ倉庫・横浜税など横浜港を象徴する建造物を少し高い目線で眺めることができます。






山下臨港線プロムナードの下に降りてみましょう。
1986年までここを貨物列車が走っていたと思うと感慨深いですね 🚂
下に降りたところは「ピア象の鼻」という観光船乗り場になっており、観光船や貸切クルーズ・工場夜景クルーズ・羽田空港クルーズなど、様々な航路の出発点になっています。
また、嘉永7年(1854年)にペリー提督率いるアメリカ艦隊が来航して上陸した場所です。
象の鼻防波堤


象の鼻防波堤を実際に歩いてみましょう。
安政5年(1859年)、横浜開港に伴い、幕府は開港場の中央部に波止場を建設しました。
この波止場は2本の突堤が岸からまっすぐに海に向かって突き出た簡素なものでした。
突堤には外国の大きな船舶が直接横付けできないため、沖に停泊している船舶から小船に貨物を移し替えて運んでいましたが、強風による高波の影響で荷役作業はしばしば妨げれました。

そこで、幕府は慶応3年(1867年)に東側の突堤を延長して象の鼻のように弓なりに湾曲した防波堤を築造し、この防波堤で囲まれた水域での荷役作業が一気に効率化されました。
その後、象の鼻防波堤は関東大震災で沈下してしまいますが、平成21年(2009年)の開港150周年を記念して明治時代の姿に復元されました。

防波堤の先端部分は象の鼻のようにクルっと曲がっています。



象の鼻防波堤から望む横浜港の風景も圧巻です。

象の鼻防波堤付近には、明治初期の歴史的転換点を象徴する一場面を描いた絵画も紹介されています。
この作品は明治4年11月12日(1871年12月23日)に岩倉具視を特命全権大使とする使節団(岩倉使節団)が欧米に派遣された歴史的瞬間を描いています。
使節団は岩倉具視を特命全権大使とし、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ほか、同行者を含め100余名で構成され、蒸気船アメリカ号で「象の鼻」から出航しました。

岩倉使節団の当初の目的であった不平等条約の改正の交渉は果たせなかったものの、日本近代化に向けた大きな一歩となり、後の制度改革や産業発展に大きな影響を与えました。
「象の鼻」は日本近代化の出発点とも言える場所であり、現在も当時と変わらない場所にその姿を残しています。
大さん橋

次に、大さん橋へ向かいます。
現在の大さん橋は、平成14年(2002年)に完成した7代目で、波や船をイメージした流線形のデザインが特徴的です。

巨大な大さん橋のウッドデッキを上っていきます。

大さん橋の正式名称は、「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」で、横浜港の「海の玄関口」として130年以上の歴史を持つ、まさに港町・横浜の象徴的な存在です。

「くじらのせなか」と呼ばれる屋上デッキは起伏に富み、開放感抜群です。
360度の絶景パノラマが広がっていますので、海風を感じながら眺望を楽しみましょう!




クルーズ船が停泊している時の眺望は360度というわけにはいきませんが、巨大なクルーズ船を間近で見る迫力もまた楽しみの一つです。
今回は横浜公園から日本大通りを通って横浜開港の地を散策しました。
幕末から明治期にかけての歴史的建造物や横浜ならでは風景が楽しめる観光スポット盛り沢山のルートです。
是非皆さんも横浜の魅力を堪能してみてください!



にほんブログ村

コメント
コメント一覧 (1件)
[…] あわせて読みたい 【日本大通り】横浜公園~大さん橋:日本初の西洋式街路とペリー来航の地を訪ねて 安政元年(1854年)、ペリー来航を契機に幕府は日米和親条約を締結し、4年 […]