今回は横浜市港北区にある小机城址を散策します🚶🏻➡️
小机城とは・・・
- 鶴見川の突き出た丘陵上の要害
- 築城年代は明らかではないが、15世紀半ば頃までには築城されていたと考えられている。
- 戦国時代には小田原北条氏の関東進出のなかで重要な軍事拠点となっていた。
- 続100名城にも選ばれている。
- 現在は「小机城址市民の森」として整備され、巨大な空堀や土塁を見ることができる。

JR横浜線の小机駅 南口をスタートします🚶🏻➡️

駅構内には小机城址までのご案内地図が掲示されています。
横浜F・マリノスのキャラクター「マリノスケ」も兜をかぶって登場です!
港北区のキャラクター「ミズキー」はハナミズキの妖精だそうです。
横浜市城郷小机地区センター

まずは小机駅を南出口を出てすぐの横浜市城郷小机地区センターに立ち寄り、ガイドマップを頂きましょう。

入口で小机城スタンプが押せます。
「続日本100名城」とは、日本の城のうち、公益財団法人日本城郭協会が2017年に定めた名城の一覧で、2006年に発表された「日本100名城」に続くものです。
小机城はNo.125として「続日本100名城」に選定されています。
なお、御城印は地区センターではなく「横浜市歴史博物館(センター北駅徒歩5分)」で販売されています。

2階図書室の奥に小机城址の模型が展示されています。
それでは、小机城址へ向かいましょう🚶🏻➡️

駅から10分ほど歩きますが、道中にはこのような案内板が出ているので迷うことはありません。

JR横浜線の踏切を超え、古めかしい道標がある交差点を左に曲がりましょう。
小机城址市民の森

小机城址の入り口にある「根古谷広場」に着きました。
根古谷とは、城の麓にあった城主の館や家臣の屋敷地です。
城主はいつも城にいるわけではなく、平時には麓に居住し、戦闘時のみ城に詰めていたようです。
これは中世後期の全国の山城でよくみられたスタイルです。

『市民の森』とは、昭和46年から始まった横浜市独自の緑地を保存する制度です。
「小机城址市民の森」は、戦国時代の城址「小机城址」を「市民の森」として整備された自然保全型の緑地なのです。

では、竹林が生い茂る散策道を進みましょう。

城跡には散策道が整備され、とても歩きやすくなっています。

散策路を100mほど進むと、巨大な空堀が現れます。
水をはらない空堀は、水をはるために勾配のゆるい水堀よりも堅固な施設と言えるそうです。

しばらく進むと本丸広場の入り口が現れます。
周囲を掘で囲まれた平坦な場所を郭(曲輪)と呼び、ここは小机城の西郭です。

本丸広場には「小机城址」と記された控えめな石碑があります。

現在、この西郭を本丸広場と呼んでいますが、小机城は調査等実績が少ないため、西郭に本丸があったとは断定できないそうです。

本丸広場では野球ができるようになっています。
お城で野球っていいですね。平和な時代に生まれて良かったと感じます。

本丸広場の隅には小机城の云われについて解説した案内板があります。
小机城が築城された年代は明らかではありませんが、15世紀半ば頃ではないかと考えられれています。
当時の城は石垣や天守をもつ建物ではなく、山や丘の地形を活かして築城された砦や館のようなものが多く、土塁や掘り、木柵で守られていたのが一般的でした。
小机城は15世紀後半、関東の覇権を巡る争いの中で重要な役割を果たしました。
1478年、山内上杉家の重臣・長尾景春が家督争いに端を発して主君に反旗を翻し、小机城を拠点に挙兵(長尾景春の乱)。
これに対し、扇谷上杉家の重臣・太田道灌が出陣し、小机城を攻め落として乱を鎮圧しました。
その後、この辺りは北条早雲を祖とする小田原北条氏の領地となり、小机城は約40年間廃城となりますが、戦国時代に入って再び整備されます。
小田原北条氏が関東支配を進める中で、北条氏康の家臣・笠原信為が城主として入り、小机城は武蔵国の北の守りを担う要衝として機能しました。
しかし、1590年、豊臣秀吉の小田原征伐により小田原北条氏が滅亡すると、小机城は再び廃城となり、静かに歴史の舞台から姿を消しました。

本丸広場の奥に下り坂の階段が整備されています。
城郭的に言うと、西郭から空堀へ下りる階段ということになりますね。

階段を下りた先は完全に竹林の中で幻想的な空間です。
空堀の底に散策道が整備されているのです。
戦国時代、この空堀に侵入した敵を上から見下ろしながら射掛け、城を防御していたのですね。

分かれ道になっていますが、「井楼跡」の方へ行ってみましょう。

井楼とは、遠くの敵を見つけるために造られた見張り台のことです。
現在、井楼の面影は何も残っていません。

井楼跡の背後には土塁があります。

土塁を上ったところに「矢倉跡」の標識柱があります。
矢倉(櫓)とは石垣や土塁の上に建てられ、倉庫・兵舎・物見・防御拠点など多機能な建物で、主に戦国時代以降の城郭建築に登場します。
高い所から物見をするという機能は井楼と似ていますが、簡素な造りの“木の足場”である井楼に対して、矢倉(櫓)は発達した城郭建築物の一部というイメージです。
矢倉の痕跡は残っていませんが、どんな矢倉だったのでしょうか・・

土塁の上部が少し平坦になっています。
この細長い平坦部分は「つなぎの曲輪」と呼ばれ、西郭と東郭の間に位置しています。

この「つなぎの曲輪」の先端部に櫓台があったと記されています。
城の南側から攻めてくる敵を見張るための重要な防御施設であったと考えられます。

この場所から見下ろす空堀が一番深く感じます。
侵入した敵兵がこの土塁を上るのは困難だったことでしょう。まさに鉄壁の防御です!

二の丸広場入口付近にも櫓台があります。
一城には数ヶ所の櫓台が置かれていたのです。

この開けた場所が二の丸広場(東郭)です。

二の丸広場は芝生やベンチがあって、公園っぽいですね。
二の丸広場に本丸がったという説もあります。今後の研究で明らかになるのでしょうか・・

櫓台の案内板に沿って上ってみると、平坦な曲輪状の場所があり、ベンチが置かれています。

二の丸広場(東郭)を一望できるこの場所にも櫓があり、敵の侵入に備えていたのでしょう。

二の丸広場の奥に標識柱を見つけました。
こっちが、二の丸広場の正式な入口のようです。
二の丸は本丸を直接守備する役割があります。

二の丸広場の奥にある階段を下りていきます。
かなりの高さがありますが、それだけ掘が深く、攻められにくいということになります。
また、階段が途中で左に湾曲しており、その奥も土塁と思われます。

竹林の中の散策道が続きます。

少し開けた場所に出ました。よく見ると、ここは先ほど見た道の反対側ですね。

二の丸広場にショートカットして行ける道もあったようです・・

この辺りの竹は特に迫力があります。ちょっと怖いくらいに伸びています!
この竹は「孟宗竹(モウソウチク)」という中国原産の竹で、沖縄・鹿児島を経由して日本各地に広がったそうです。
「孟宗竹(モウソウチク)」という名前は、三国時代の呉の人物「孟宗(モウソウ)」が病気の母のために雪深い竹林の中で奇跡的にタケノコを掘り採ったことに由来するそうです。

再び本丸と二の丸の間を抜けて根古谷へ戻ります。

空堀を下から見上げると、その深さ・大きさを実感できます。
なお、今見られる空堀は長年の風雨によって多少埋まっているはずなので、戦国時代当時は今よりも深く、鋭く掘られていたと考えられます。

今回は「小机城址市民の森」を散策しました。
かつての戦国の平山城「小机城」の遺構である空堀や土塁、曲輪の跡が森の中に点在し、整備された散策道を歩いているだけで、当時の地形の起伏や防御の工夫が肌で感じられます。
足元の落ち葉を踏みしめるたびに、かすかに武士たちの気配が蘇る・・
そんな歴史の余韻が息づく散策スポットに出かけてみてはいかがでしょうか。

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