1859年の横浜開港と同時に外国人居留地が整備されました。
真っ先に整備されたのは関内地区でしたが、関内が手狭になったことや、湿気が多く衛生面で懸念があったことから、1867年に高台の山手地区が追加で居留地に指定されました。
緑豊かな山手の高台に外国人たちが住み始め、関内のビジネス街と山手の住宅街を行き来するライフスタイルが定着しました。
2つの街を繋ぐ斜面に位置する元町公園とその周辺を散策し、文明開化期の面影を感じてみましょう!

みなとみらい線「元町・中華街駅」の5番出口をスタートします🚶🏻➡️

駅前から続く元町商店街のシンボル「フェニックス(不死鳥)」には、関東大震災と横浜大空襲という二度の壊滅的被害から復興を果たし、未来へ向かって飛躍し続けるという意味が込められています。

横浜開港当時、外国人居留地と隣接して発展した元町は、異国情緒漂う洗練された雰囲気の街並みになっています。
ウチキパン ~ 日本の食パン発祥の店 ~

元町商店街に入ってすぐ左折したところにある「ウチキパン」は、なんと1888年(明治21年)創業という伝説的なベーカリーです。
「日本の食パン発祥の店」として知られ、現在でも食パン「イングランド」は同店の看板商品として大人気です。
ここでパンを買って、元町公園のベンチで食べるのもいいですね。

外国人墓地のところで道が分かれますが、ここは右へ進みましょう。
生麦事件犠牲者の墓(外国人墓地)

外国人墓地の中には入れませんが、柵越しに「生麦事件犠牲者の墓」が見えます。
事件発生当時、既に外国人居留地は整備され始めていましたが、開港からわずか3年。尊王攘夷派による襲撃事件が頻発しており、特に居留地の外は外国人にとってかなり危険な場所だったのです。

教科書でも習う生麦事件は、1862年(文久2年)に横浜・生麦村で薩摩藩の大名行列を横切ったイギリス人が殺傷された事件です。
武士の礼儀観と西洋の外交常識が衝突し、後に薩英戦争へと発展。幕末日本の国際関係に大きな影響を与えました。
大名行列を横切ったイギリス人は4人いましたが、この墓には重傷を負ったウィリアム・マーシャルとウッドソープ・クラークが眠っています。(二人とも横浜で亡くなっています)
マーシャルとクラークの墓碑は2006年に新設されたため、比較的きれいで新しいですね。
| 名前 | 性別 | 状況 | 備考 |
|---|---|---|---|
| チャールズ・リチャードソン | 男 | 死亡 | 最初に斬られ、逃げる途中で落馬し、とどめを刺された。 |
| ウィリアム・マーシャル | 男 | 重傷 | 脇腹などに深い傷を負ったものの、一命を取り留めた。 |
| ウッドソープ・クラーク | 男 | 重傷 | 肩などに大きな傷を負ったものの、一命を取り留めた。 |
| マーガレット・ボロデール | 女 | 無傷 | 帽子を飛ばされるなどの衝撃があったが、負傷は免れた。 |

二人の墓の隣には、殺傷されたチャールズ・リチャードソンの墓が建っています。
リチャードソンの墓碑はさすがに歴史を感じさせる古い石造りですね。
なお、唯一無傷だった女性のマーガレット・ボロデールは事件後、精神的に大きなショックを受けましたが、後にイギリスへ帰国しています。
ジェラールの偉業(1)船舶用飲用水の供給システムの確立

外国人墓地の脇道から住宅街の方に入って、元町公園の入口へと続く「水屋敷通り」へ出ます。
そこに現れるのは「ジェラール水屋敷地下貯水槽」です。
この元町公園を散策するにあたって押さえておくべき人物がいます。

その人物とは、幕末から明治にかけて横浜で活躍したフランス人実業家「アルフレッド・ジェラール」です。
ジェラールの功績は多岐にわたりますが、代表的な事業は下記の2つです。
(1)船舶用飲料水の供給システムの確立
(2)西洋瓦(フランス瓦)とレンガの製造

横浜居留地周辺は埋め立て地が多く、井戸を掘っても塩分を含んでいて飲料には適しませんでした。
横浜港に寄港する外国船の乗組員にとって、日本で補給する水は良質なものでなければなりませんので、当時の横浜港は「安全な水の圧倒的な不足」という問題を抱えていました。

そのような状況下、ジェラールが取得した元町公園付近の広大な領地から、とても良質で豊富な湧き水が出ることが発見され、この水は長期間の航海でも腐らないと言われるほど純度が高かったのです。
そこで、ジェラールは自前の水源から港へ直接供給できる仕組み(貯水槽や給水管)を整える事業を始めました。
これを見た横浜の人々は、この給水施設のことを「ジェラールの水屋敷」と呼ぶようになったのです。

平成12年、ジェラールが作ったこの地下貯水槽は国の登録文化財に指定されています。

元町公園の入口は、水屋敷通りの始点でもあります。

元町公園付近の湧き水は、一旦「上部貯水槽」に貯えられたのち、「中間桝」を経由して「下部貯水槽」へ流れ込む構造になっています。
中間桝と上部・下部貯水槽をつなぐ管の経路は不明ですが、土管であることが確認されています。


ジェラールが船舶給水のために堀川まで埋設したとされる給水管も、公園内や水屋敷通りのどこかに眠っているかもしれません。


元町公園を上っていくと、「上部貯水槽」に関する説明板があります。
「上部貯水槽」は「下部貯水槽」の湧水調査を行った際に元町公園内で発見されました。
周囲の山からの湧き水が毎分約50リットル流れ込み、その水位が1メートル程度になると「下部貯水槽」へ流れる仕組みになっていました。
ここで集水した湧き水の不純物を沈殿させて水質を安定・向上させる役割を果たしていたと考えられます。
「上部貯水槽」から堀川までは地下に管を敷設し、川岸から小船に積み替えて横浜港内の船舶に給水していたようです。
このような仕組みから生まれた船舶用飲料水は「インド洋に行っても腐らない」と評判を呼び、横浜港は「東洋一の良港」としての地位を確立していったのです。
ジェラールの偉業(2)西洋瓦とレンガの製造

ジェラールのもう一つの偉業は、西洋瓦とレンガの製造です。
現在元町公園となっているこの場所には、ジェラールが経営する西洋瓦とレンガの製造工場がありました。

ジェラールが作った西洋瓦はフランス瓦の一種であり、『ジェラール瓦』と呼ばれました。
その最大の特徴は、縁に凹凸の噛み合わせる構造にあり、日本瓦より高い防水性を誇る点でした。
また、薄く軽量な上に釘で固定する方式のため、日本瓦のように大量の「葺き土」を必要とせず、屋根全体を軽量化することもできました。
開港後、来日した西洋人は、はじめ日本瓦で葺かれた日本風の建物に住んでいましたが、次第に自国流の建物を建て始めます。
しかし、建築資材である西洋瓦やレンガなどは舶来品に頼っていたため、品不足に悩まされていました。
そこで、ジェラールは西洋瓦とレンガの製造工場を建設したのです。

塀に書かれた「A.GERARD’S STEAM TILE AND BRICK WORK’S」は、蒸気機関を用いた瓦とレンガの製造所であることを示しています。

左下の大きな建物がジェラールの工場です。工場の屋根も西洋瓦で葺かれています。

ジェラールは居留地77番から79番の約3,370坪を落札し、永代借地権を獲得して工場を経営しました。
当初の動力は湧き水の水圧を利用して水車を回す「水力」がメインでしたが、生産量を増やすために後に「蒸気機関」が導入されました。
蒸気を作るためにも「真水」が必要だったため、水屋敷の湧き水は工場の稼働に不可欠でした。

しかし、大正12年に発生した関東大震災により崖が崩れ、工場は倒壊してしまいます。
震災後、工場の跡地は横浜市が買い取り、震災復興事業として湧き水を利用した「元町公園プール」が建設されました。
現在の「元町公園プール」は昔のように100%湧き水というわけでなく、水道水との併用となっていますが、管理棟は当時のジェラールの工場をイメージしたデザインとなっており、その屋根の一部には『ジェラール瓦』が使用されています。
山手80番館遺跡 ~ 関東大震災前の外国人住宅の遺構 ~

元町公園プールから更に上っていくと赤レンガの巨大な構造物『山手80番館遺跡』があります。
山手80番館は明治末期から大正初期に建てられましたが、大正12年の関東大震災で倒壊してしまいました。
震災当時、フランス人貿易商のマクガワン夫妻の住居だったとされています。

横浜の山手エリアに現存する西洋館の多くは震災後に再建されたものですが、この遺跡は震災によって倒壊した震災前の建物がそのまま残されている数少ないスポットです。
遺跡から出土したタイルの複製も展示されており、華やかな内装を想像することができます。
また、崩落した瓦礫の中から「ジェラール瓦」の破片も多数見つかっており、当時の西洋館の屋根を彩っていたことが裏付けられています。

元々は鉄筋で補強されたレンガ造りの3階建て(地上2階・地下1階)の豪邸でしたが、現在は地下室部分のみが遺構として保存されています。
ジェラールの工場に隣接する場所であることから、遺跡のレンガもジェラールの工場で作られたものであると考えられます。

遺跡の周囲には見学用デッキが整備されており、上から間取りを眺めることができます。
山手80番館は当時としては珍しい浄化槽を備えていたことが判明しており、当時の外国人居留者の優雅で進歩的な暮らしぶりも伺えます。
エリスマン邸 ~ 横浜市認定歴史的建造物 ~
ここからは山手本通り沿いに建ち並ぶ西洋館を巡っていきましょう。

山手80番館遺跡に隣接する『エリスマン邸』です。
エリスマンは日本の生糸を世界に広めた「シーベル・ヘグナー商会」の横浜支配人として活躍した人物です。

大正15年(1926年)にスイス人貿易商 フリッツ・エリスマンの邸宅として山手町127番地に建てられましたが、マンション建設のため解体され、その部材を横浜市が買い取って保管。平成2年(1990年)に現在地(旧山手居留地81番地)へ移築・復元されました。

設計は「日本近代建築の父」と言われるチェコ出身の建築家 アントニン・レーモンドです。
白い壁に、サンルームの青緑色の鎧戸(よろいど)が美しく映えますね。

館内は無料で見学でき、喫茶室もあります。

べーリック・ホール ~ 横浜市認定歴史的建造物 ~

エリスマン邸の隣に建つ「べーリック・ホール」の入口です。

「ベーリック・ホール」は、かつてイギリス人貿易商「B.R. ベーリック」の邸宅として使われていた歴史的にも建築的にも非常に価値の高い西洋館です。

昭和5年(1930年)、アメリカ人建築家 J.H. モーガンの設計により建築され、山手地区に現存する戦前の外国人住宅としては最大規模を誇ります。

「元町公園」の一部として無料公開されており、観光スポットとしても人気があります。
季節ごとにテーブルコーディネートや装飾のイベントも開催されています。

べーリック・ホールの前の通りを東へ進みましょう。(エリスマン邸の前を通過する)
山手234番館 ~ 横浜市認定歴史的建造物 ~

続いての西洋館は「山手234番館」です。
山手234番館は昭和2年(1927年)、朝香吉蔵の設計により建設された歴史的な建造物ですが、残念ながら、訪れた時は修繕工事中でした。 ※工事は令和8年3月末(予定)まで
ベーリック・ホールが「一軒の豪華な邸宅」だったのに対し、こちらは「外国人向けの共同住宅(アパートメント)」として建てられました。
その目的は、関東大震災で横浜を離れたしまった外国人に戻ってきてもらうための「復興事業」の一つだったそうです。

当初の構造は、4つの同一形式の住戸が中央の玄関ポーチを挟んで対称的に向かい合い、上下に重なる構成をもっていました。(1階に2世帯、2階に2世帯)
現在、1階は再現された居間や山手234番館の歴史に関する資料展示コーナーがあり、2階は貸しスペースとしてギャラリーや会議室に利用されています。

自働電話 ~ 日本初の公衆電話(復元)~

山手234番館のすぐ目の前(山手本通り沿い)に白い灯台のようなレトロな形のボックスが建っています。
これは「自働電話(じどうでんわ)」と呼ばれる日本初期の公衆電話ボックスを復元したものです。

明治時代、公衆電話が初めて登場した当時は「公衆電話」ではなく「自働電話」と呼ばれていました。
交換手を呼び出さずに、硬貨を入れれば「自動的」に電話機が作動する仕組みだったことからその名がついたそうです。
この電話ボックスは、明治23年に横浜〜東京間で電話交換業務が開始されてから100周年を迎えたことを記念して、平成2年に設置されました。
明治33年に東京・京橋に初めて設置された日本初の街頭電話ボックスのデザインを忠実に再現しています。

ボックスの中には明治33年に登場した「デルビル磁石式電話機」も再現されています。
まるでロボットの顔のようですね。
その下にはお馴染みの緑の電話機も設置されていますので「現在も使える公衆電話」です。
山手資料館 ~ 横浜市認定歴史的建造物 ~


「山手資料館」は、山手エリアに点在する洋館の中でも「明治時代から残る横浜市内で最古の木造西洋館」という非常に貴重な建物です。

明治42年に旧本牧本郷町に建てられた中澤兼吉邸の洋館部分を昭和52年に移築したもので、関東大震災を生き延びた数少ない建物なのです。


館内には、横浜開港と山手の歴史を中心として花ひらいた文明開化期の貴重な資料が展示されています。
外国人墓地 ~ 始まりは「ペリー来航」~

山手資料館から山手本通りを挟んだ向かい側には「外国人墓地」があります。

外国人墓地ができたきっかけは、安政元年(1854年)のペリー来航にまで遡ります。
ペリー艦隊の乗組員だったロバート・ウィリアムズ(二等水兵)が艦内で事故死した際、ペリーが「海の見える場所に埋葬してほしい」と幕府に要求しました。幕府がそれに応じ、元町にあった「増徳院」の境内を墓地として提供したことが始まりです。

横浜開港後、この地は居留外国人の墓地となり、約5,600坪の敷地に40か国以上、約5,000柱の人々が眠っています。その中には最初に見た生麦事件の被害者3人のほか、日本の近代化に貢献した人々も数多く含まれています。

墓地内は通常非公開ですが、2月~7月と9月~12月の毎週土・日・祭日(雨天を除く) 12時00分~16時00分に「募金公開」が行われています。
これは墓地の維持管理のための募金(500円程度)に協力した人への返礼として、入苑して見学ルートを巡ることができるという取り組みです。

外国人墓地の左手に眺めながら、最後の目的地「アメリカ山公園」へ向かいましょう🚶🏻➡️
アメリカ山公園 ~ 日本初の立体都市公園 ~

アメリカ山公園の入口です。

入口の柱に「BLUFF 97」の文字が刻まれています。
“ブラフ(BLUFF)” とは “切り立った崖” という意味です。
新山下に面する絶壁状の地形から、居留地の時代より、山手は外国人たちに「ブラフ」と呼ばれていました。
現在の住所は「山手町97番地」です。

山手町97番地に位置する「アメリカ山公園」は、みなとみらい線の「元町・中華街駅」の駅舎の真上に作られた、日本初の「立体都市公園」です。

「アメリカ山」という名前の由来は、この土地の歴史が深く関わっています。
明治初期、ここは米国公使館の予定地でした。
(結果的にはアメリカ公使はこの場所に住まず、アメリカ公使館の書記官が住みました)
また、第二次世界大戦後にはアメリカ軍によって接収され、米軍住宅が建設されました。
昭和46年に返還され国有地となった後、平成16年に横浜市が国から用地を取得し、“ アメリカにゆかりのある高台” であることから「アメリカ山公園」と命名して整備されたのです。

また、平成18年にアメリカ山公園の建設に先立って行われた発掘調査により、貝塚があることが分かりました。(元町貝塚)
この貝塚からは土器や石器など縄文時代の人々が使っていた道具が見つかっており、当時この周辺の海がとても豊かだったと考えられています。(手前のベンチがある辺りで出土したそうです)

切り立った崖「ブラフ」なので、公園からの眺望も良好で、手前のフランス橋(港の見える丘公園の北端)から横浜ベイブリッジまで見渡すことができます。

みなとみらい線「元町・中華街駅」の真上にある公園なので、駅の6番出入口と直結しており、エスカレーターやエレベーターで改札まで下りることができます。
今回は元町公園周辺を散歩しました。
開港から関東大震災直前まで、文明開化の象徴的な街として大きく発展した山手地区。
エリスマン邸やベーリック・ホールが元町公園の敷地内(あるいは隣接)にあるのは、ここが山手の中でも特に見晴らしが良く、かつ生活に便利な「一等居住地」だったからです。
元町公園が現在の形になったのは昭和5年(1930年)。
関東大震災で崩壊した山手地区を復興させる際、ジェラールの工場跡地などを整備して作られました。
まさに、居留地の歴史が「記憶」として保存された地域といえます。
そんな激動の歴史をもつ山手の街歩きを楽しんでみませんか。


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