武勇の誉れ高く、清廉潔白な人柄であったことから『坂東武士の鑑』と称される鎌倉時代の武将「畠山重忠」。
元久2年(1205年)、鎌倉幕府の権力争いに巻き込まれ、謀反の疑いをかけられた重忠は、鎌倉へ向かう途中で北条義時率いる大軍と戦って討ち死にしました。(二俣川の戦い)
重忠が悲劇の最期を遂げた場所として、横浜市旭区周辺も重忠関連史跡が多く残されています。
今回は畠山重忠が北条義時に討たれた地「鶴ヶ峰周辺」を歴史散歩してみましょう。

ちなみに畠山重忠といえば、馬を背負う姿が有名ではないでしょうか。
これは源平合戦の「一ノ谷の戦い」における名シーンで、急峻な鵯越の崖を駆け下りて平家の本陣を奇襲攻撃した「鵯越の逆落とし」の際、「馬を怪我させてはならない」と愛馬を背負って崖を降りたという伝説が残されているためです。
実際、重忠が馬を背負ったかどうか分かりませんが、その姿は江戸時代の浮世絵に描かれ、「畠山重忠公史跡公園」(埼玉県深谷市)には銅像も建てられています。
これは優しさと強さを兼ね備えた重忠を象徴する姿と言えるでしょう。

それでは、相鉄線「鶴ヶ峰駅」をスタートしましょう🚶➡️
早速ですが、「鶴ヶ峰」という地名の由来には2つの説があります。
1.この付近を流れる帷子川(かたびらがわ)沿いに広い田畑があり、多くの「鶴」が飛来していた。
鶴たちは「小高い丘(峰)」で休み、下の田畑へ餌を求めて舞い降りていたという説。
2.古語で「ツル」は「水が流れる場所」や「川のそばの湿地」を意味することがある。
帷子川の「水流(ツル)」がある場所にある「小高い丘(峰)」という意味で名付けられたという説。
いずれにしても、この地名は鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも「鶴峯(つるがみね)」として登場するほど歴史のある名前なのだそうです。
旭区市民活動支援センター「みなくる」(畠山重忠ゆかりの地マップ)

鶴ヶ峰駅直結の商業施設「ココロット鶴ヶ峰」の4階にある旭区市民活動支援センター「みなくる」で「畠山重忠ゆかりの地マップ」が配布されています。


畠山重忠と関連史跡に関する紹介や周辺地図のほか、重忠関連商品を扱うお店の紹介など、とても充実した内容になっています。
重忠ファンには必須のガイドブックですね。

では、鶴ヶ峰駅の北口を出て、まずは鎧の渡し緑道へ向かいましょう。

北出口を出たら、そのまま真っ直ぐ鶴ヶ峰商店街を進みます。

交差点に出たら、横断歩道を渡って右へ進みます。
鎧の渡し緑道


歩道脇に「よろいばし」と書かれた石柱が建っています。
この付近を流れる帷子川(かたびらがわ)は元々大きく蛇行しており、大雨が降るたびに氾濫を繰り返す「暴れ川」でした。
かつての帷子川に掛けれらた「鎧橋(よろいばし)」は、「戦死した畠山重忠の鎧(よろい)を、この付近に埋めた(または洗った)」という伝説が名前の由来となっています。
昭和40年代半ば、帷子川の流れを真っ直ぐにするための河川改修工事が行われ、旧河道であるこの周辺は埋め立てられ、鎧橋から南側に続く「鎧の渡し緑道」と、鎧橋から北側に続く「鶴ヶ峰公園」が整備されました。

では、鎧橋を左折して「鎧の渡し緑道」を歩いてみましょう。

住宅街の中に緑豊かな遊歩道を整備されています。
道の曲がり具合を見ると、かつて川だった時代の名残を感じますね。

鎧の渡し緑道の終点です。
目の前に建つ白い建物は旭区役所です。
鎧の渡し・首洗い井戸

旭区役所の裏手に「鎧の渡し」と「首洗い井戸」という2本の標柱が建っています。
まず、「鎧の渡し」については、北条義時率いる大軍に攻められた畠山重忠が、増水した帷子川を渡る際、「鎧を頭の上に掲げて(あるいは鎧を着たまま)川を渡った」と伝えられています。

また、「首洗い井戸」については、二俣川の合戦で討ち取られた畠山重忠の首を、この場所にあった井戸で洗い清めたという伝説が残されています。
かつてこの場所に直径1メートルほどの井戸があり、水が湧いていたそうですが、河川改修や時代の変化に伴い井戸も失われました。
畠山重忠公 首塚

首洗い井戸のすぐ近くにある小高い場所に「首塚」があります。
ここには畠山重忠の首が祀られていると伝えれれる場所です。
武士の作法として、討ち取られた将の首は検分にかけられた後に埋葬されます。
重忠は、北条の大軍に対しても堂々と立ち向かった「武士の鑑」として非常に尊敬されていました。そのため、討たれた場所に近いこの地に、地元の人々が手厚く葬り、塚を築いたのが始まりとされています。

首塚には小さな祠(ほこら)があり、重忠の霊を弔うための地蔵菩薩が安置されています。
また、祠の隣には七重の立派な供養塔も建てられています。
現在も地域の方々や歴史ファンによって花が供えられ、非常に綺麗に手入れされており、時代を超えて慕われる重忠の人気の証とも言えるでしょう。
畠山重忠公碑 ~ 畠山重忠公 終焉の地 ~

鶴ヶ峰駅前の通り(水道道)に戻り、厚木街道との交差点(鶴ヶ峰駅入口交差点)を渡ります。

元久2年(1205年)6月、執権・北条時政からの命に接して僅か134騎の手勢を連れて鎌倉へ向かった畠山重忠は、自分が討伐対象となっているとは思っていませんでしたが、鶴ヶ峰に差しかかったところで数万騎の北条義時軍と遭遇します。
重忠は謀略を察しましたが、「身の潔白を証明するために逃げ隠れはしない」と決意し、圧倒的な多勢を相手に数時間に及ぶ激戦を繰り広げました。
最終的に、弓の名手・愛甲季隆の放った矢が重忠に当たり、42歳の若さで生涯を閉じたのです。

交差点の一角には畠山重忠没後750年を迎えた昭和30年6月に、地元・鶴ヶ峰と埼玉県深谷市畠山(旧・川本町)の有志によって建立された「畠山重忠公碑」が建てられています。

畠山重忠公碑の傍には「さかさ矢竹」と呼ばれる史跡があります。
二俣川の合戦で敗色濃厚となった畠山重忠は、飛んできた矢を自ら引き抜き、「我が心正しかれば、この矢にて枝葉を生じ、繁茂せよ」と叫んで2本の矢を地面に突き刺しました。
通常、竹や木の枝を上下逆さまにして地面に刺しても根付くことはありません。
しかし、重忠が刺した矢(竹製)は、逆さまの状態であったにもかかわらず、そこから根が出て枝葉が広がり、見事な竹林になったという伝説から「さかさ矢竹」と呼ばれるようになりました。
矢畑・越し巻き

水道道を西へ進みます。「矢畑・越し巻き」まで500mです。

途中、歩道が狭くなる場所があります。すれ違う際は譲り合って通りましょう。


セブンイレブンを過ぎてすぐのT字路を左に曲がると「矢畑・越し巻き」の標柱があります。
この付近は「二俣川の戦い」における激戦地として知られています。
・矢畑(やばたけ)
北条勢が放った無数の矢が一面に突き刺さり、「矢の畑」のようになった状況。
・越し巻き(こしまき)
僅かな畠山軍が北条の大軍にぐるりと取り囲まれた状況。
これらの状況はこの戦いがいかに圧倒的な戦力差だったかを物語っています。
そんな絶望的な状況下でも、「身に覚えのない謀反の疑い」に対して潔白を証明すべく、畠山軍は最後まで潔く正々堂々と戦ったのです。
薬王寺・六ツ塚

次の史跡「六ツ塚」がある薬王寺へ向かいます。
水道道を少し戻って鶴ヶ峰の住宅地へ入っていきますが、鶴ヶ峰という名が示す通り、丘陵地になりますので上り坂も多くなります。
目印になるものも少ないので、Googleマップで位置を確かめながら進みましょう🚶➡️

薬王寺に近づくと小さな祠と標識があります。

住宅地の中にある薬王寺に到着です。
「六ツ塚」とは、二俣川の合戦で敗れた畠山重忠をはじめ、一族・家臣たち134人を合葬した6つの塚のことであり、薬王寺の境内にあります。

境内には「六ツ塚」の名の通り、6つの塚があります。

六ツ塚は地元の人々や、重忠の武勇と清廉潔白な人柄を惜しんだ人々によって、手厚く供養するために築かれたと言われています。


畠山重忠公供養塔が建つ、最も大きな塚が重忠本人の塚でしょうか。

重忠が討たれた後、残された畠山軍は一人も逃げることなく、その場で潔く殉じたそうです。

境内入口には重忠公を祀る大きな石碑と説明板が建てられています。
説明板によると、謀反の疑いをかけられたことを知った重臣から「一度、菅谷の館に引き返し軍を整え、身の潔白を訴えるべき」と進言されたが、重忠は「それでは謀反が真実となり、永久に汚名を着ることになる」として、その場での決戦を選んだとの記述があります。
重忠は「引き返す=潔白ではない」と捉えて撤退案を退けたのです。
徹底して「武士の面目」と「潔白」を貫こうとした彼の頑固なまでの誠実さが、この一文からより強く伝わってきます。
敵将の北条義時は、重忠を討った後も「彼は本当に謀反など企てていなかった」と確信し、その死を深く悼みました。

六ツ塚がある薬王寺では、今でも重忠公の命日にあたる6月22日に慰霊祭が行われています。
すずり石水跡

薬王寺から北へ徒歩約5分。住宅地の片隅に「すずり石水跡」の標柱があります。
「二俣川の戦い」において重忠が鶴ヶ峰に陣を張った際、崖から湧き出ていた水を使って墨をすり、文を書いたという伝承が残っています。
現在は住宅地開発が進んだ影響により、湧き水は途絶えています。
北条義時率いる大軍に包囲され、もはや最期を悟った重忠が、武蔵国の本拠地に残してきた家族へ向けて「最後の別れを告げる文」であったのでしょうか。

丘陵地なので少々きつい坂や階段がありますが、次の史跡「駕籠塚」までは徒歩8分程度です。
頑張って登っていきましょう。
駕籠塚(かごづか)

しばらく歩いて住宅街を抜けると「鶴ヶ峰配水池」が現れます。

鶴ヶ峰配水池に接する細長い場所に「駕籠塚」があります。

「駕籠塚」は畠山重忠の妻「菊の前(きくのまえ)」の墓と伝えられる史跡です。
合戦の知らせを受けた「菊の前」は、夫の身を案じ、本拠地(現在の埼玉県深谷市付近)から駕籠(かご)に乗って急ぎ駆けつけました。
「菊の前」が鶴ヶ峰付近に辿り着いたとき、重忠が討死したという悲報を耳にし、絶望した彼女はその場で自害しました。

彼女を哀れんだ人々が、乗ってきた駕籠(かご)ごと埋葬したことから「駕籠塚」と呼ばれるようになりました。
もともと「駕籠塚」は鶴ヶ峰浄水場(現在の鶴ヶ峰配水池)の敷地内に大きな塚として存在していましたが、浄水場の周辺の整備に伴い、現在地に移設されたそうです。
「すずり石水跡」で重忠が書いたとされる文も、もしかしたら「菊の前」へ向けたものだったのかもしれませんね。
丘陵地を下りて鶴ヶ峰駅へ戻りましょう🚶🏻➡️

鶴ヶ峰駅入口交差点には「鎌倉古道(中の道)」の標柱があります。
重忠も「いざ鎌倉」という思いで鎌倉へ向かおうとしていたはずですが…

帰路も鎧橋を渡ります。
かつては帷子川が流れていましたが、現在は鶴ヶ峰公園として憩いの場となっています。

相鉄 鶴ヶ峰駅北口に到着です。お疲れさまでした。
今回は畠山重忠ゆかりの地を巡りました。
武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された畠山重忠は、以前から歴史ファンに人気の武将でした。
さらに、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』において、人気俳優の中川大志さんが演じた重忠は「理想の重忠」として視聴者の心を掴み、重忠の人気に拍車がかかったと言われています。
800年の時を超えて、ドラマチックな合戦の舞台をタイムトラベルしてみませんか。
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