幕末の横浜開港に伴い、関内に外国人居留地が置かれました。
1868年に外国人居留地と横浜港を結ぶ道路の一つとして開通したこの道は、外国人が馬車で往来していたことから「馬車道」と呼ばれるようになりました。
馬車道には歴史的な名所が点在し、開港当初のモダンな景観を楽しみながら散策できる観光スポットです。
今回は「みなとみらい線 馬車道駅」から「JR関内駅」まで歩きます🚶🏻➡️
みなとみらい線 馬車道駅

馬車道駅の構内は街の景観と融合したモダンなデザインが取り入れられています。
駅名標もその一つで、「馬車道 Bashamichi」のフォントが明朝体になっています。
また、壁面には本物のレンガが使用され、職人が手作業で積んで仕上げるというこだわりぶりです。


吹き抜けの壁面上部には、かつて地上に存在した旧建物のレリーフが展示されており、明治期の文明開化や異国情緒が感じられます。

こちらの吹き抜けの壁面には何やら古い建物のパーツが設置されています。
「馬車道駅」周辺は横浜の発展を担ってきた地区であり、近くには神奈川県立博物館や帝蚕倉庫など、クラシカルな建築物や開港時のモニュメントなども見られます。この壁面はそれらの古い建物の記憶を保存・展示する場所としての役割をもつよう設計されました。
現在展示物がない場所には今後壊されていく古い建物のパーツなどを設置していく予定です。この地区周辺の記憶が、駅とともにこの場所に蓄積保存されていくことを望んでいます。平成16年2月1日 横浜高速鉄道株式会社
案内板より引用




レンガとストリートピアノも映えますね♪

駅構内のデザインを堪能してから5番出入口を出ました。

早速、このような明治時代の馬車道の写真が出迎えてくれました。
では、散策を始めましょう。
旧富士銀行横浜支店

旧富士銀行横浜支店は昭和4年(1929年)に安田銀行横浜支店として建てられ、戦後に富士銀行と改称した後も横浜支店として使われ、昭和28年(1953年)に増築されました。
その後、平成17年(2005年)からは東京藝術大学大学院のキャンパスとして活用されています。
外壁はルスティカ積み(粗い石積み)で力強さと重厚感を演出し、柱と窓はドリス式オーダーの付柱と半円形窓が組み合わされて配置されています。
これは戦前の古典主義様式の銀行建築の典型といわれており、横浜市認定歴史的建造物に認定されています。

クラシカルな赤レンガ舗装の歩道にはベンチが配置されています。

馬車道のマークは「BSマーク」と呼ばれています。
「BS」は「Bashamichi Street」の略で、馬と車輪が描かれたデザインが特徴です。
何気に電話ボックスにも「BSマーク」が入っていますね。
馬車道大津ビル(旧東京海上火災保険ビル)

馬車道大津ビル(旧東京海上火災保険ビル)は、昭和11年(1936年)に建てられました。
一見すると平板で控えめな外観ですが、装飾タイルが巧みに貼られた気品ある佇まいの建築物で、馬車道の街並みに溶け込んでいます。
この建物も横浜市認定歴史的建造物に認定されています。
神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行 本店本館)

神奈川県立歴史博物館の建物は、明治37年(1904年)に旧横浜正金銀行 本店本館として建設されました。
明治大正期に活躍した建築家「妻木 頼黄」の代表作の一つで、ドイツの近代洋風建築の影響を受けた明治時代の貴重な建造物であることから、国の重要文化財に指定されています。

横浜正金銀行は、横浜開港以来、外国商人が主導していた貿易金融取引を改善するため、明治13年(1880年)2月28日に設立されました。
当時は為替制度が未発達でしたが、横浜正金銀行は創立時から貿易金融と外国為替に特化し、日本の不利益を軽減するよう正金(現金)で貿易決済を行うことを主な業務としていました。
日本の産業経済の発展に貢献した貿易金融機関の在り方を示す貴重な建造物とその敷地であることから、国の史跡にも指定されています。

神奈川県立歴史博物館の向かい側には、牛馬飲水槽(牛や馬の給水設備)のレプリカが設置されており、当時の交通文化を偲ぶことができます。
損保ジャパン横浜馬車道ビル(旧川崎銀行横浜支店)


大正11年(1922年)、旧川崎銀行横浜支店として建設されました。
現在は損保ジャパン横浜馬車道ビルの壁面の一部として、その姿を遺しています。
平成元年(1989年)、横浜市認定歴史的建造物の第1号に認定されています。
下岡蓮杖 顕彰碑



日本に写真師という職業を確立した日本写真の開祖「下岡 蓮杖」
江戸時代末期から明治時代にかけて活躍し、横浜に日本初の写真館を開きました。
数多くの門下生を育て、近代文化の発展に貢献した功績を讃える顕彰碑です。
平和堂薬局(横濱馬車道あいす販売店)

馬車道は日本における「アイスクリーム発祥の地」でもあります。
記念像はもう少し先に行ったところにありますが、この薬局で販売されている「横濱馬車道あいす」は日本初のアイスクリーム「あいすくりん」を再現したレトロなアイスとして有名です。

薬局という意外な場所で販売していることが街の魅力に繋がっているように思います。

「横濱馬車道あいす」は横浜市に本社を置く「タカナシ乳業」が製造しており、カップと最中があります。
最中の味はミルク・抹茶・小豆・チョコレートの4種類で、1個150円(税込)でした。
薬局の前にはベンチもあります。

懐かしい味わいのアイスクリームを食べながら、文明開化の歴史に浸るのも粋ですね。
初めてアイスクリームを食べた日本人はこの味をどう感じたのでしょう・・
「日本で最初のガス灯」記念碑

関内ホールの前には「日本で最初のガス灯」記念碑とともに、当時のものを復元したガス灯が立っています。
開港に伴い、様々な西洋文化が馬車道を起点に全国に拡がりましたが、ガス灯のその一つです。
明治5年(1872年)、高島嘉右衛門が設立したガス会社「日本ガス社中」により、馬車道・本町通り等にガス灯が設置・点灯され、これが日本における最初のガス灯となりました。

壁のレリーフは、横浜開港資料館所蔵の絵葉書を転写したもので、明治末期の馬車道の様子が描かれています。

現在、馬車道通りから山下公園通りまでの約4kmにわたって149基のガス灯が設置されており、馬車道のガス灯は全て実際にガスで点灯しています。
異国情緒溢れる街並みに文明開化の灯を感じながらの散策は贅沢ですね。
太陽の母子像(アイスクリーム発祥の地)


昭和51年(1976年)に彫刻家 本郷 新によって作られた「太陽の母子像」は、アイスクリーム発祥の地を記念して、日本アイスクリーム協会より寄贈されたものです。
日本におけるアイスクリームは、1869年6月に横浜馬車通りに町田房造が氷水屋を開業し、そこで売られた「あいすくりん」が始まりといわれています。日本アイスクリーム協会は、1964年にこの先駆者、町田房造(まちだふさぞう)を称えて毎年5月9日を「アイスクリームデー」と制定しました。
制作を依頼された本郷は、《太陽の母子》をアイスクリームの原料ミルクから連想して、母乳で子どもを育む「母」のイメージで制作しました。母のひざの上で無邪気に両手を広げ、全体重を母にあずけた幼子と、微笑をたたえ慈しみのまなざしを注ぐ母。母と子の深い絆で結ばれた姿を本郷は表現しています。

地下鉄関内駅の出入り口も景観に配慮したモダンなデザインになっています。
「近代街路樹 発祥之地」碑


馬車道交差点の脇に建つ赤い大理石の碑は「近代街路樹 発祥之地」碑です。
開港に伴い、馬車道沿いの商店街が競って柳や松を植えたことが、日本における近代街路樹の始まりとされています。(それまでの参道並木や街道並木などの地方並木とは区別)

明治以降、欧米都市の影響を受けて樹種の選定や植栽技術が急速に進化し、街路樹が日本各地に拡がりました。
史跡 吉田橋関門跡

JR関内駅が近づいてきましたが、この先にある吉田橋まで進みます。

吉田橋の手前に「鉄の橋」碑が建っています。
吉田橋(鉄の橋)は、明治2年(1869年)に英国人土木技師リチャード・ヘンリー・ブラントンによって設計・建設された日本初のトラス構造の鉄橋です。

「鉄の橋」とも呼ばれ、文明開化の象徴として市民に親しまれました。

現在の吉田橋の欄干は「鉄の橋」をイメージして復元されたものです。

横浜開港に伴い、外国人居留地と外部を隔てるために関門(関所)が設けられました。
そして、この吉田橋を隔てて馬車道側は「関内」、伊勢佐木町側は「関外」と呼ばれるようになりました。
明治4年(1871年)に関門が廃止された後、「関内」「関外」という呼び名は今も残っています。
吉田橋は、関門を通じて東海道と横浜港を結ぶ重要な橋で、交通と治安の要所でした。

橋の西側は伊勢佐木町で関外になりますので、馬車道はここまでです。


関門の内側にあり、ギリギリ外国人居留地だった場所にある「JR関内駅」に到着です。
馬車道は文明開化を感じさせる様々な発祥の地や歴史的建造物が点在しています。
また、景観にも配慮された魅力的な街並みになっていますので、カメラが大活躍しますよ 📸✨
早速、馬車道の歴史散策に出かけましょう!

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