東叡山寛永寺は江戸城の鬼門(北東)を守る寺院として上野の台地に創建されました。
かつては上野公園一帯を境内とし、その壮麗な堂塔伽藍の多くが戦禍で失われたものの、今も残る貴重の文化財や再建された建物は往時の雰囲気を感じられる大変魅力的なエリアです。
今回は寛永寺と隣接する谷中霊園を含めたエリアの歴史散歩です🚶🏻➡️
どうぞお付き合いください😊

休日は多くの人で賑わうJR上野駅公園口をスタートします🚶🏻➡️
寛永寺 根本中堂跡

上野公園の中を通って最初の目的地「寛永寺 開山堂」へ向かいます。
上野公園のメインストリートで、イベントが開催されることも多い場所です。
奥には名所の噴水池や東京国立博物館が見えます。


江戸時代、現上野公園の地は寛永寺の境内であり、堂塔伽藍が建ち並んでいました。
噴水池がある辺りには寛永寺の中心的堂宇である根本中堂がありました。
初代 歌川広重による「東都名所 上野東叡山全図」に当時の様子が描かれており、左側の建物が根本中堂です。
しかし、幕末の上野戦争によって根本中堂をはじめとする広大な伽藍のほとんどが焼け落ちてしまいました。

大通りの脇には東都名所上野東叡山全図のレリーフを配した碑が建てられ、寛永寺の歴史を今に伝えています。
寛永寺 開山堂(両大師)

寛永寺開山堂は徳川家の祈祷寺として創建された寛永寺の中でも特別な場所です。
祀られているのは、寛永寺を開いた慈眼大師・天海大僧正と、彼が尊敬した慈恵大師・良源大僧正です。
二人の大師を祀っていることから「両大師」とも呼ばれています。

初建は正保元年(1644年)ですが、現在のお堂は平成5年に再建されたものです。
天海大僧正は安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した天台宗の高僧で、徳川家康・秀忠・家光の三代にわたって帰依していた僧侶です。
織田信長による焼き討ちで荒廃した比叡山の復興にも尽力したほか、江戸の都市設計にも関わり、陰陽道や風水を用いて、江戸城の鬼門にあたる寛永寺の創建者となりました。
一方、良源大僧正は平安時代の天台宗の高僧であり、火災で焼失した比叡山延暦寺の伽藍を再建しました。
疫病が流行した際には、自ら鬼の姿に変じて疫病神を追い払ったという逸話があり、その姿が「角大師」や「豆大師」の護符になりました。
また、「おみくじ」の創始者としても知られています。

この桜は天皇陛下が車を戻した「御車返しの桜」と呼ばれると特別な桜です。
御水尾天皇が京都の寺で花見をした帰り道、あまりの美しさに牛車を引き返してもう一度見に戻ったという逸話が残されています。
この桜は一本の木に一重と八重の花が同時に咲くことが特徴で、とても美しいのだそうです。

この門は明治の文豪「幸田露伴」の旧宅の門で、谷中にあったものを移築したものです。
ここを出て旧本坊表門がある輪王殿の方へ向かいます。
東叡山 寛永寺 旧本坊表門(重要文化財)

この黒い門は寛永2年(1625年)に建てられた門で、寛永寺の住職である輪王寺宮が住んでいた本坊の表門です。(寛永寺は特に格式が高い寺院であったため、住職は天皇の皇子や猶子が務めていた)
1868年の上野戦争で寛永寺の多くの堂塔伽藍が焼失しましたが、この門だけは奇跡的に焼失を免れました。
明治時代には帝国博物館(現、東京国立博物館)の正門として使われましたが、現在の本館の改築に合わせて昭和12年(1937年)に現在地へ移築されました。


門扉には上野戦争における銃弾の跡が残っており、当時の戦闘の激しさを物語っています。

旧本坊表門は江戸の祈りと幕末の記憶が宿る大変貴重な建造物として、国の重要文化財に指定されています。
徳川家綱 霊廟勅額門(重要文化財)

開山堂(両大師)を出て東京国立博物館の敷地の外側を進むと、右手に江戸幕府4代将軍・徳川家綱の霊廟勅額門が現れます。
勅額門とは天皇が直筆で書いた扁額(額縁入りの文字)を掲げた門のことですが、現在、扁額は失われています。


慶安4年(1651年)4月、家綱は父・家光の死に伴って、わずか10歳で将軍の座につき、39歳で没しました。
家綱は温厚で内向的な性格だったとされ、絵画や釣りがなどの趣味を好んだそうです。
治世においては、末期養子の禁を緩和することでお家断絶による浪人の増加を防いだり、殉死(死亡した主君を追って家臣が自殺すること)を禁止するなど、武断政治から文治政治への転換を図りました。

寛永寺に造営された霊廟の多くは明治維新後に解体されたり東京大空襲で焼失しましたが、この勅額門は奇跡的に災いを逃れた貴重な遺構です。
門の外側は柵があるため近づくことは出来ませんが、柵越しに見学することができます。
徳川綱吉 霊廟勅額門(重要文化財)

寛永寺境内に造営された江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の霊廟の門です。

綱吉は延宝8年(1680年)5月に兄・家綱の死に伴って将軍となり、63歳で没しました。
歴史の授業でも習う「生類憐みの令」を施行した将軍として有名ですね。
ただし、綱吉の治世は「天和の治」と讃えられるほど前半は安定しており、湯島聖堂を建立するなど儒学を重んじる文治政治を推進しました。


綱吉の霊廟は歴代将軍の中でも最も整ったものの一つでしたが、明治維新後に解体されたり、第二次世界大戦で大部分が焼失してしまいました。
奇跡的に焼け残った勅額門は大変貴重な遺構と言えます。
東叡山 寛永寺 根本中堂

寛永2年(1625年)、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(北東の方角)にあたる上野の台地に天海大僧正によって建立されました。
山号の東叡山は「東の比叡山」を意味し、寺号の「寛永寺」は創建時の元号「寛永」に因んだものです。
元号を寺号とするには朝廷の勅許を受ける必要があり、寛永寺は極めて格式が高い寺院であったことを意味します。

根本中堂は寛永寺の本堂であり、天台宗の教えの中心を象徴する建物です。
元禄11年(1698年)、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の時代に綱吉の寵愛を受けて幕政を主導した柳沢吉保の指揮によって建立されました。
寛永寺のご本尊は薬師瑠璃光如来で、最澄(天台宗の開祖)が自ら彫ったと伝えられる薬師瑠璃光如来像(国指定重要文化財)が祀られています。

創建当初の根本中堂は、現在の上野公園の大噴水あたりにあり、壮大な規模を誇りました。
しかし、幕末の上野戦争で焼失し、現在の建物は明治12年(1879年)に川越の喜多院(かつて天海が住職だった寺院)の本地堂を移築して再建されたものです。


境内にある銅鐘は4代将軍・家綱の一周忌にあたる延宝9年(1681年)5月8日に家綱の霊廟前に掛けられたもので、将軍家の儀式に使われていた格式ある鐘です。
明治維新後に根本中堂の鐘として移設され、現在でも除夜の鐘や重要な法要の際に使用されています。



かつての寛永寺根本中堂の屋根に据えられていた鬼瓦は高さ248cm・幅325cmという圧巻のサイズでした。
徳川家の菩提寺として鬼瓦には葵の御紋があしらわれ、徳川将軍家の守護を象徴する存在でした。
また、その隣には旧本坊表門(黒門)に据えられていた鬼瓦が展示されています。
東側にあった「阿」形は耐用年数を過ぎていたため、平成22年の解体修理の際、西側の意匠に合わせて作り替え、古いものが境内に保存されています。

寛永寺の北側にある通用門を出て谷中霊園へ向かいます。

通用門の扉には徳川家の象徴として知られる三つ葉葵の家紋が掲げられています。
三つ葉葵は実在する植物ではなく、架空のデザインです。
そのルーツは京都の賀茂神社の神紋「二葉葵」で、徳川家の前身である松平家が賀茂神社の氏子だったことから、この葵紋を家紋として採用したのが始まりと言われています。
谷中霊園
寛永寺通用門を直進して交差点を渡ると谷中霊園の入口です。
谷中霊園には第15代将軍・徳川慶喜やその家臣でもあった実業家・渋沢栄一など、多くの偉人が眠っています。
徳川慶喜公墓所(東京都指定史跡)

谷中霊園入口には「徳川慶喜公墓所入口」の看板と案内図が建てられています。
まず、徳川慶喜公の墓所へ行ってみましょう。

案内図の通り、まっすぐ進みます。

130メートルほど進むと「乙10号11側」の区画表示板とともに「徳川慶喜公墓所」の小さな石碑が建っていますので、ここを左に曲がります。


さらに100メートルほど進むと「徳川慶喜公墓所」の標識が見えます。


50メートルほど進むと「徳川慶喜公墓所」の大きな石碑が建っています。

東京都指定史跡「徳川慶喜墓」は柵と塀で囲われています。
門に掲げられた三つ葉葵の家紋は徳川家の威光を感じさせます。

柵の間から覗かせていただきました。
中央の石碑は「徳川慶喜公事蹟顕彰碑」、左側が「徳川慶喜の墓」、右側が「正室・美賀子の墓」です。

15代将軍・徳川慶喜は江戸幕府最後の将軍として日本の歴史の大きな転換点に立ち会った人物です。
天保8年(1837年)、水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれ、とても聡明だったことから若い頃から「将軍にふさわしい」と期待されていました。
しかし、激動の幕末において外国の外圧や国内の対立が激しく、将軍としての在任期間は僅か1年ほど。
大政奉還によって幕府を終わらせ、鳥羽・伏見の戦いでは家臣を遺して密に大坂城を脱出するなど将軍としてマイナスなイメージが先行します。
一方、世界情勢を冷静に見極めて大政奉還を断行し、日本の近代化に貢献したと評価する見方もあります。

晩年、徳川慶喜は明治天皇より華族の最高位である「公爵」を与えられました。
このことに深く感謝し、その気持ちを表すために自分の葬儀を仏式ではなく神式で行うよう遺言を残しました。
そのため、一般皇族と同じような円墳状の墓が建てられました。
代 | 将軍 | 墓所 | 備考 |
---|---|---|---|
初代 | 家康 | 日光東照宮(日光市) | 東照大権現として神格化 |
2代 | 秀忠 | 増上寺(港区) | 武家諸法度、禁中並公家諸法度の制定 |
3代 | 家光 | 輪王寺(日光市) | 参勤交代を制度化、鎖国政策の完成 |
4代 | 家綱 | 寛永寺(台東区) | 殉死の禁止、末期養子の緩和 |
5代 | 綱吉 | 寛永寺(台東区) | 儒学の振興、生類憐みの令 |
6代 | 家宣 | 増上寺(港区) | 正徳の治、新井白石を登用 |
7代 | 家継 | 増上寺(港区) | 5歳で将軍に就任、江島生島事件 |
8代 | 吉宗 | 寛永寺(台東区) | 享保の改革、暴れん坊将軍 |
9代 | 家重 | 増上寺(港区) | 言語障害、御三卿体制を整備 |
10代 | 家治 | 寛永寺(台東区) | 田沼意次を重用、浅間山が噴火 |
11代 | 家斉 | 寛永寺(台東区) | 寛政の改革(松平定信)、在位期間最長 |
12代 | 家慶 | 増上寺(港区) | 天保の改革(水野忠邦)、黒船来航 |
13代 | 家定 | 寛永寺(台東区) | 病弱、日米和親条約の締結 |
14代 | 家茂 | 増上寺(港区) | 公武合体、長州征伐 |
15代 | 慶喜 | 谷中霊園(台東区) | 大政奉還、神式の葬儀 |
参考までに、歴代徳川将軍の墓所をまとめてみました。
増上寺・寛永寺ともに6人ずつ。江戸城の鬼門と裏鬼門を守る2大菩提寺が墓所の数も二分しています。
渋沢栄一家墓所(台東区史跡)

「徳川慶喜公墓所」の小さな石碑があった道に戻って、直進します。

50メートルほど直進すると右側に「乙11号1側」の区画表示板があり、その奥に見えるお墓が渋沢栄一家墓所です。


「青淵澁澤榮一墓」と刻まれた墓碑が渋沢栄一のお墓です🙏🏻

出典:『近世名士写真』其2,近世名士写真頒布会,昭10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3514947
渋沢栄一は「日本資本主義の父」と呼ばれる実業家で、日本初の銀行「第一国立銀行」を創設するなど約500の企業や団体の設立に関わった偉人です。
2024年7月3日から一万円札の顔となり、一躍脚光を浴びましたね。
渋沢栄一はもともと百姓の出身ですが、幕末の激動の中で武士に取り立てられ、徳川慶喜に仕える幕臣となりました。
明治維新後に静岡に隠居した徳川慶喜の名誉回復にも尽力し、慶喜の功績を後世に伝えたいとの思いから『徳川慶喜公伝』を編纂しました。
谷中霊園内で徳川慶喜の墓所と渋沢栄一の墓所は徒歩約3分(直線距離では約140メートル)の近さであることは、栄一が慶喜を深く敬愛していたことの表れなのでしょうか。

渋沢栄一家墓所の前には大きなダブノキが植えられ、広場として整備されています。
この場所は元々渋沢家の墓所敷地でしたが、2015年に敷地の一部が返還され、2022年1月に中央東広場として整備されました。

広場にはベンチも置かれ、訪れる人が少し腰を下ろして渋沢栄一の生涯に思いを馳せることができる場所となっています。
天王寺五重塔跡(東京都指定史跡)
もう一ヶ所、谷中霊園の名所をご紹介します。


かつて、天王寺五重塔があった場所が公園として整備されています。


天王寺五重塔は正保元年(1644年)に創建されました。
安永元年(1772年)に焼失しましたが、寛政3年(1791年)に再建され、高さ34.18mを誇った関東一の五重塔は谷中のランドマークとして親しまれました。
また、明治大正期に活躍した小説家・幸田露伴の作品「五重塔」のモデルにもなっています。

しかし、昭和32年(1957年)に放火で焼失してしまいました。
現在も中心礎石や四本柱礎石など49個の花崗岩製礎石が残されており、周囲の公園から往時を偲ぶことができます。
日暮里駅

日暮里駅に到着しました。
日暮里駅はJR東日本各線、京成電鉄本線、東京都交通局の日暮里・舎人ライナーが乗り入れるターミナル駅です。

周辺には昭和の香りが漂う谷中銀座商店街や、「繊維の聖地」と呼ばれる日暮里繊維街など魅力が多い街です。
改めて日暮里駅周辺を散策してみたいですね。
今回は寛永寺の根本中堂を中心に、歴代将軍の霊廟・墓所などを巡りました。
寛永寺の伽藍の一部は上野公園内にも残されています。
そちらについては上野公園の記事にまとめていますので、是非あわせてご覧ください。



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