江戸城北の丸の跡地に整備された北の丸公園は、昭和44年に昭和天皇の還暦を記念して開園した国民公園です。
環境省が管理する「国民公園 皇居外苑」の一部に含まれる公園とあって、都心にありながらも整備が行き届いた自然豊かな森林公園となっています。
また、園内には田安門や清水門といった江戸時代の遺構から旧近衛連隊記念碑など昭和の遺構まで多くの名所旧跡が点在し、歴史の余韻を肌で感じられます。
そんな魅力たっぷりの北の丸公園を散策してみましょう🚶🏻➡️

地下鉄 九段下駅2番出口からスタートしましょう🚶🏻➡️

江戸時代は今よりも急坂で、九つの石段状の坂であったことが由来とされる九段坂を上っていきます。

迫力ある濠の奥に見える田安門が公園の入口です。

北の丸公園の入口・田安門交差点の向かい側には、246万柱の英霊を祀る靖国神社の入口も見えます。
靖国神社については下記の関連記事をご覧ください。


四季の風景が美しい九段坂。長い上り坂になっていることが分かります。
濠は牛ヶ淵と呼ばれ、隣の千鳥ヶ淵とともに江戸城の飲料水を確保するために麹町方面から流れていた自然の湧水を堰き止めて作られました。
旧江戸城 田安門

「田安門」は旧江戸城北の丸の北部に位置する枡形門で、正面の高麗門とその右手奥の櫓門からなります。

国指定重要文化財「田安門」が北の丸公園の北側の入口なのです。

枡形の内部より撮影した「田安門」
左側の巨大な櫓門上部には大量の武具が保管されており、敵が右側の高麗門から侵入しても櫓門上部から攻撃できる設計になっています。

「田安門」は寛永13年(1636年)に建てられたものと考えられています。
櫓門の上部は昭和の復元によるものですが、江戸城の総構完成当時に遡る現存唯一の建造物として国の重要文化財に指定されています。

「田安門」の名前の由来は、かつてこの地が田安台と呼ばれる百姓地であり、そこに田安大明神が祀られていたことにあります。
また、江戸時代中期には8代将軍 徳川吉宗の次男・宗武がこの地に御三卿の一つとして田安家を興し、門内に邸宅を構えたことから「田安」の名が定着しました。

宗武の七男・松平定信は田安徳川家に生まれ、白川藩主を経て老中首座となって「寛政の改革」を主導し、質素倹約や学問統制を進めました。
日本武道館

田安門をくぐるとすぐ左手に建つ建物は日本武道の聖地である「日本武道館」です。
日本武道館は1964年東京オリンピックの柔道競技会場として建設され、同年10月3日に開館しました。
八角形の大屋根は法隆寺の国宝・夢殿をモチーフにしています。

1964年の東京オリンピックは男子柔道が初めて正式競技として採用された記念すべき大会であり、日本は金メダル3個、銀メダル1個を獲得しました。
その後、2020年東京オリンピックでも柔道と空手の競技会場として使用され、柔道で12個(金9個、銀2個、銅1個)、空手で3個(金1個、銅2個)を獲得しました。
また、1966年にはビートルズが来日し、ここでコンサートを行いました。
以降、日本における音楽の聖地としても知られるようになり、多くのミュージシャンにとって憧れの舞台となっています。
近衛歩兵第一・第二連隊 記念碑

日本武道館の向かい側にある『Café33』の脇道を進むと右手に見える石碑が「近衛歩兵第一連隊記念碑」です。
明治新政府が樹立した当初、脆弱な体制だった明治政府が「天皇の警護」を名目に薩摩・長州・土佐藩から約1万人の献兵を受けて「近衛兵」が創設されました。
かつて、園内は近衛歩兵第一連隊と第二連隊の宿営地でした。

公園内の遊歩道からさらに南へ進むと左側に「近衛歩兵第二連隊記念碑」があります。

近衛歩兵第一・第二連隊は、1874年(明治7年)1月23日に日本陸軍最初の歩兵連隊として創設され、1945年(昭和20年)の終戦まで約70年にわたってこの地に駐屯し、皇居の守護を担いました。
東京管区気象台 北の丸公園露場

東京管区気象台の北の丸公園露場(ろじょう)は、気温・湿度・気圧・降水量・感雨(降水の有無)・積雪の深さを観測しています。
ビル群が発する熱の影響を避けるため、芝生と樹木に囲まれた北の丸公園内に設置されました。
大都市の真ん中で、より自然に近い気象データを得るために選ばれた場所なのです。

リアルタイムの観測データの表示設備も設置されています。
私たちが天気予報で知る「東京の天気」は、ここ北の丸公園露場のデータが使われています。

中に入ることは出来ませんが、温度計・湿度計・雨量計・感雨器・積雪計など実際の観測機器を間近で見ることができます。

公園中央の道路を渡って東側エリアへ行ってみましょう。
緑の中にイチョウの黄色が重なり合って、初秋の風情が感じられました。
吉田茂像

清水門の手前の広場に「吉田茂像」が建っています。
この銅像は吉田茂の生誕100年を記念して昭和56年に建立されたもので、戦後日本を代表する彫刻家・舟越保武による作品です。

吉田茂は第45・48・49・50・51代の内閣総理大臣として、戦後の混乱期にあった日本を復興へ導き、ふくよかな風貌と葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」と呼ばれました。
この地に銅像が建てられた理由は、昭和42年10月31日に戦後初の国葬が日本武道館で行われたためです。
ちなみに、戦後に国葬が行われたのは吉田茂(昭和42年)と安倍晋三(令和4年)の二名だけです。
旧江戸城 清水門

吉田茂像の近くの遊歩道脇から重要文化財「清水門」を見下ろすことができます。

北の丸公園の東側の出入口である「清水門」へ向かって階段を降りていきましょう。

「清水門」の創建年代は明らかになっていませんが、江戸城北の丸の東門として北の丸普請が行われていた江戸時代初期に建造されたと考えられています。
その後、明暦の大火で焼失し、万治元年(1658年)に再建されたものが現存する門になります。
門の名前は、かつてこの地に清水寺があったことや、清水が湧き出ていたことに由来します。
また、江戸時代中期には9代将軍 徳川家重の次男・重好がこの門内に屋敷を構え、御三卿の一つ「清水家」を興しました。
北の丸公園の東側一帯が「清水家」、西側一帯が「田安家」だったのです。

櫓門の上部は昭和に復旧整備されたものですが、江戸城の遺構として歴史的価値が高く、国の重要文化財に指定されています。

田安門と同じく、高麗門と櫓門が直角に配置された枡形の構造で、敵の侵入を防ぐ工夫がされています。

九段坂の下の方になるため、田安門付近と比べると濠が近くに感じます。

田安門とよく似ていますが、人が少ないのでフォトスポットとしても最適です📸✨

牛ヶ淵の向こう側に日本武道館の屋根が見えますね。
屋根のてっぺんにある擬宝珠は、よく「たまねぎ」と呼ばれて親しまれています。
屋根全体は富士山をイメージしているそうです。
ちなみに、春には桜の名所になります🌸

清水濠周辺の景色も風情があります。
旧江戸城の城郭の向こう側に、首都高速道路や近代的なオフィスビルが建ち並ぶ光景は時代が交差する不思議な魅力を感じます。

それでは、再び「清水門」をくぐって北の丸公園に戻ります。(重要文化財なのに、人が少ない・・)

ちなみに、「清水門」は幕末に皇女・和宮が江戸城に輿入れする際に通った門としても知られています。
輿入れの行列は総勢3万人・長さは70kmにも及んだと言われています。
芝生広場

北の丸公園の中央には芝生広場があり、休日は家族連れがカップルの憩いの場となっています。

レジャーシートを敷いて寝っ転がったり、ピクニックを楽しむのにぴったりな場所です。

遊具はありませんが、大きな池があって小さな魚もいるようです。網をもって魚を観察しようとする子供たちの姿も見れらます。

園内には約2,000本もの落葉樹が植えられていて、秋にはモミジやイチョウ、ケヤキなどが異なる色に染まって美しい風景を楽しむことができます。
滝見台

公園西部は小高い丘になっていて、そこにはなんと滝が流れています!
もちろん、人工の滝ですが、昭和44年の開園に合わせて造園家・伊藤邦衛が設計したもので、「風の川」と呼ばれる渓流を生み出しています。

滝を見下ろすことができる滝見台も設置されています。

迫力ある滝の音をと景色を楽しみながら、休憩することができます。
紅葉が色付けば、さらに魅力的な映えスポットとなるでしょう。
怡和園跡

「怡和園」とは、明治時代に近衛歩兵第一連隊の敷地内に造られた小庭園で、連隊長・由比光衛大佐が命名して石碑を建てました。
「怡和」とは「喜び和らぐ」という意味で、兵士たちの散策や憩いの場として親しまれていました。
戦後、北の丸公園の造成によって姿を変えましたが、当時の石碑が残されています。

怡和園跡からは自然豊かな千鳥ヶ淵の風景を見下ろすことができます。

しばらく、散策しながら公園の南側へ向かいましょう🚶🏻➡️

公園の南側を通る代官町通りの向かい側には皇居の乾門が見えます。
この辺りは北の丸公園の南端になります。
皇居の外周路については関連記事をご覧ください。

北白川宮能久親王銅像

北白川宮能久親王は、幕末から明治にかけて活躍した皇族で、仏門(寛永寺の貫主)から還俗して陸軍に身を置いた異色の経歴をもつ人物です。
軍事研究のためにヨーロッパへ渡り、プロイセン陸軍大学校で近代戦術を学び、帰国後は近衛師団長や第四師団長などを歴任しましたが、日清戦争後の台湾平定戦において現地でマラリアにり患して殉職しました。
北白川宮能久親王の軍歴は単なる戦功にとどまらず、皇族が軍務に就くことで国民と苦楽を共にするという象徴的な役割を果たしました。
旧近衛師団司令部庁舎

「旧近衛師団司令部庁舎」は陸軍技師・田村鎮の設計により、明治43年(1910年)3月に建てられました。
近衛師団は大日本帝国陸軍の師団の一つで、一般師団とは異なり最精鋭かつ最古参の軍隊として天皇と皇居を警衛する任務を担っていました。

戦後は取り壊しの危機に瀕しましたが、建築家・谷口吉郎の保存運動によって国の重要文化財に指定され、後に東京国立近代美術館工芸館として活用されました。
現在は工芸館が石川県に移転したため、建物の外観のみ公開されています。
千鳥ヶ淵さんぽみち

ここからは、「千鳥ヶ淵さんぽみち」の案内に沿って代官町通り経由で千鳥ヶ淵緑道を歩いていきましょう🚶🏻➡️

北白川宮能久親王銅像の脇から側道へ出ることができます。

首都高速都心環状線に架かる歩道橋を渡ります。

代官町通りに出て西へ進みます。

旧近衛師団司令部庁舎は少し離れたところから見た方がいい感じかも。。
代官町通り沿いの緑道

歩道脇から土手沿いの緑道の方へ入っていきます🚶🏻➡️

左側の代官町通りでは今日も皇居ランナーが走っていますね🏃🏻♂️➡️

そして、右側には千鳥ヶ淵の水面スレスレを首都高速道路が通る風景を眺めることができます。


最後は千鳥ヶ淵の中にクルマが吸い込まれていくかのようです。
大都会・東京ならではの風景ですね。

クルマの流れをボーと見ていると、つい長居してしまいますが、先へ進みましょう🚶🏻➡️

何やら丸いベンチのようなものが出てきました。
これは「千鳥ヶ淵高射機関砲台座跡」です。

この台座は、太平洋戦争末期に皇居を防御するために設置されたものです。
ここに高射機関砲を設置して上空からの攻撃に対応しようとしましたが、高高度で飛行するB-29爆撃機には効果が薄く、外れた弾が市街地に落下してしまうこともあったそうです。
何気ないベンチが、かつての戦争の最前線だったと思うと風景の見え方も少し変わりますね・・

土手を降りて代官町通りの歩道に戻ります。

代官町通りの向こう側には半蔵濠が見えます。

ちょっとだけ寄り道して、千鳥ヶ淵交差点から見える半蔵濠を撮影📸✨

千鳥ヶ淵さんぽみちに戻って、首都高速道路の上を通過します。
千鳥ヶ淵緑道

すぐそこに千鳥ヶ淵の水面が見える場所まで下りてきました。
高速道路にも近くなるので、少し騒がしくなります。
先ほどまで歩いていた土手が奥に見えますね。

「千鳥ヶ淵緑道」の案内があります。 千鳥ヶ淵緑道は千代田区が管理する遊歩道です。
「千鳥ヶ淵さんぽみち」は環境省が設定したモデル散策コースで、千鳥ヶ淵緑道もそのコースの一部に含まれています。
![「安政再刻 御江戸大絵図」(安政5年[1858])の千鳥ヶ淵 / 千代田区教育委員会 所蔵](https://machiaruki.blog/wp-content/uploads/2025/11/147-edo-map-1022x1024.jpg)
千鳥ヶ淵は、旧江戸城の築城にあわせて、内濠の一部として造られました。現在の千鳥ヶ淵と半蔵濠はもともと一つで、明治34年(1901)に代官町通りの道路工事にともない分断され、今の形となりました。千鳥ヶ淵の名の由来は、V字型の濠が千鳥に似ているからといわれています。

少し進むと、左手に「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」があります。
千鳥ヶ淵戦没者墓苑は先の大戦において、海外で亡くなられた戦没者の御遺骨を納めるため、昭和34年に国によって建設された「無名戦没者の墓」です。

令和7年7月末現在、370,989柱の御遺骨が奉安されています。
誰でも自由に入って手を合わせることができる慰霊施設です。
静かに祈りを捧げていきましょう🙏🏻

再び千鳥ヶ淵緑道へ戻り、散策を続けましょう🚶🏻➡️

しばらくの間は、首都高速道路と並走です。

徐々に緑が深まってきました。

緑道が左手にカーブするところで首都高速道路とはお別れです。

ここからは静かに千鳥ヶ淵の自然を見ながらの散策となります。
春には桜の名所になるところですね。
千鳥ヶ淵ボート場

そして、千鳥ヶ淵と言えば、やっぱりボートですよね!🚣🏻


ボート乗り場の上に展望台がありましたので、眺めてみました。
広いので目立ちませんが、結構いますね。
この日はスワンボートの方が人気だったようです。
【開館時間】
午前10時~午後5時
【定休日】
毎週月曜日(月曜日が祝日の場合、翌日以降の平日が定休日)
冬期休場:12月~2月
【電話】
03-3234-1948
【利用料金(1そう当たり)】
通常期が30分 500円、60分 1000円
観桜期が30分 800円、60分 1600円
【ボートの種類と定員】
手漕ぎボート:3名まで(年齢不問)
サイクルボート・スワンボート:
大人3名まで/大人2名+子ども2名まで(子ども2人の年齢足して12歳まで)

随分遠くまで行ってる人いますね🚣

一方、緑道の方がこんな感じです。歩道の真ん中に桜の木があって、左右に細い歩道があります。
桜の季節が待ち遠しいですね🌸 ライトアップもされるそうです✨

千鳥ヶ淵の広大さに対してボートの数が少ないので、ボート場から離れた場所だと完全に景色を占領できちゃいますね! いつも混雑している上野の不忍池と対照的な印象です。

北の丸公園の北端に到着しました。

田安門も見えてきました。広い千鳥ヶ淵もここまでです。
ボート場から田安門まで30分で往復するのは難しいでしょうね・・
九段坂公園

靖国通りに出ると靖国神社の巨大な大鳥居が見えます。
それにしても異様な大きさです。高さ25メートルは8階建てのビルに相当します!

大山巌像

大山巌は薩摩藩士の家系に生まれ、戊辰戦争や薩英戦争で活躍しました。
さらに、日清戦争では第2軍司令官、日露戦争では元帥陸軍大将として満州軍総司令官を務めて日本の勝利に大きく貢献し、同郷の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と称されました。
その後、参謀総長、内務大臣を務め元老となった人物です。
銅像は大正8年(1919年)に現在の国会前庭に設置されましたが、GHQにより一時撤去され、昭和44年(1969年)に現在地に移転しました。
近代の軍人像の中では数少ない乗馬像の一つで、靖国神社の方向をじっと見つめています。
品川弥二郎像

品川弥二郎は15歳で吉田松陰の松下村塾に入門した長州藩士です。
安政の大獄で吉田松陰が刑死すると、高杉晋作らと共に尊王攘夷運動に奔走し、戊辰戦争でも活躍しました。
明治維新後は欧州へ留学し、帰国後に内務省・農商務省・宮内省に勤め、明治24年(1891年)には内務大臣となるなど、政治家として要職を歴任しました。
品川弥二郎は、現在の九段北に存在した練兵館で剣術を学んでいたことから、九段坂公園に銅像が設置されました。
高燈籠(常燈明台)

高燈籠(常燈明台)は明治4年(1871年)に靖国神社正面の常夜灯として設置されました。
方位盤や風見が付けられた擬洋風建築の燈籠で、高さは16.8mもあります。
九段坂の上に設置されたため、品川沖を出入りする船の目印として灯台の役目も果たしました。
当初は靖国通りを挟んで反対側に建っていましたが、昭和5年の道路改修に伴い、現在地に移転しました。
街の中に突然灯台が現れる感じで現在でも存在感ありますが、当時は凄く目立っていたことでしょう。

北の丸公園の北側入口まで戻ってきました。
北の丸公園は、江戸城北の丸跡に広がる緑豊かな都心のオアシスです。
四季折々の草花や野鳥が彩りを添え、春には桜が咲き誇り、秋には紅葉が園内を彩ります。
田安門や清水門など歴史的遺構に加え、武道館・科学技術館など文化施設も点在し、自然と文化・歴史が調和する場所として親しまれています。
都会の喧騒を忘れさせてくれる癒しのスポットをゆっくり散策してみませんか。


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