歴史の教科書で見た「竪穴住居」や「高床倉庫」。 まるでタイムスリップしたかのように、弥生時代の暮らしを体感できる場所が横浜にあるのはご存じですか?
今回は「大塚・歳勝土遺跡公園」を訪ねます。2000年前の風景に出会う歴史散歩に出かけましょう🚶➡️

横浜市営地下鉄 センター北駅の1番出口から出発します🚶🏻➡️

駅から南方へ歩いて5分にある横浜市歴史博物館は「大塚・歳勝土遺跡公園」と隣接しています。
この歴史博物館の常設展示では大塚・歳勝土遺跡から見つかった土器や石器も展示されており、希望日の1週間前までに博物館へ連絡すれば、ボランティアガイドによる遺跡ガイドを依頼することができます。
大塚・歳勝土遺跡公園

横浜市歴史博物館から大塚・歳勝土遺跡公園へ繋がる連絡橋を渡ります。

大塚・歳勝土遺跡公園の入口です。
「大塚・歳勝土遺跡」は弥生時代中期の遺跡で、港北ニュータウン遺跡群の一つに含まれます。
環濠集落の「大塚遺跡」と、その墓域の「歳勝土遺跡」から構成され、国の史跡に指定されています。

昭和47年(1972年)に港北ニュータウンの開発に伴う事前の発掘調査で存在が明らかになりました。
現在、史跡周辺は歴史体験施設「大塚・歳勝土遺跡公園」として横浜市によって整備されています。

それでは、入口左手の竹林の遊歩道を進みましょう。

ちょっと読みにくいですが、『国指定史跡 大塚・歳勝土遺跡』と記されています。

まず最初に大塚・歳勝土遺跡周辺の地形模型を確認してみましょう。

この模型は、大塚・歳勝土遺跡を中心とした周辺地域内の遺跡と地形を再現したものです。
大塚・歳勝土遺跡は南北を大きな谷に刻まれた複雑な形の台地の上にあります。
台地の標高は約50mで、大塚のムラでは北東の低地に水田を開いて稲作を行っていたと考えられています。
大塚遺跡(環濠集落)

いよいよ、大塚遺跡の中に入っていきましょう。

大塚遺跡は、今から約2000年前(弥生時代中期)にこの地方で稲作を始めた100人くらいの人々が暮らしていたとされるムラ(集落)の跡です。
一方、隣接する歳勝土遺跡はその墓地です。

昭和48年~51年にかけて、港北ニュータウンの開発に伴う事前調査として発掘調査が行われ、85軒の竪穴住居跡と10棟の高床倉庫跡などが見つかりました。
発掘調査によって発見された弥生時代の遺跡を約1.5mほどの盛土によって保護し、集落として生活していた様子を再現するため遺構の直上に住居などを復元されました。

大塚遺跡は、周囲に大きな濠を巡らせた構造の環濠集落です。
濠の外周は約600mにもおよぶ大規模なもので、この濠と土塁と柵によって、外敵の侵入を防いでいたと考えられます。
濠の幅は約4m、深さは約2mで、掘った土を外側に積み上げて土塁を築いていました。
竪穴住居の半数近くが火災に遭っていることから、大きな争いがあったことが伺われます。

ムラの北西端から二対になった4つの穴が発見され、出入口に架けれた橋の跡だと考えれています。
一方、ムラの南東部にも歳勝土遺跡(墓地)に通じる出入口があったはずですが、その付近からは橋の跡は見つかりませんでした。
そのことから、南東部にはここに再現したような数本の木材を渡すだけの簡単な造り橋があったのものと考えれています。

大塚遺跡の入口付近には竪穴住居跡の発掘調査時の姿が再現されています。
再現されたのは大塚遺跡の中央部にあったY-17号住居跡で、同じ場所に二度の建て替えが行われた形跡が残されています。

住居跡の窪みは「当初の住居」「拡張1回目の住居」「拡張2回目」の主柱穴や炉の跡だった部分です。


壁の一方には通路と考えられる溝も作られています。
この住居跡は「造形保存」という方法で保存されており、発見された当時の形や質感・色合いが正確に保存されているため、まるで発掘調査の現場にいるようなリアル感があります。

大塚遺跡には7棟の竪穴住居が復元されています。
竪穴住居跡の近くにあるY-39号竪穴住居は、大塚のムラの標準的な大きさの住居になります。
竪穴住居とは、地面を1mほど掘り下げ、その排土を周りに積み、その上に屋根を架けた半地下式の家屋です。

Y-39号住居は中に入ることができます。
結構暗いのですが、カメラの性能でキレイに撮れました📸✨
思ったより立派な造りですが、台風の日は怖いかもしれませんね。

大塚遺跡では竪穴住居とともに、高床倉庫も復元されています。
竪穴式住居や高床式倉庫など「式」を付けた呼び方で習った人も多いと思いますが、「式」を付けると他にもバリエーションがあるかのように誤解されやすいことから、近年の日本考古学界では「式」を付けない呼び方が一般的になっているそうです。
高床倉庫は収穫した稲などを収めておくための建物で、穀物を湿気から守るために床を高くし、出入口にはハシゴを使っていました。

柱にはネズミの侵入を防ぐための「ネズミ返し」が取り付けられています。

大塚のムラでは、高床倉庫が一ヶ所に集まることなく、3つに分かれた住居群のそれぞれに分散しており、数件の住居群が1~2棟の高床倉庫を共同で利用していました。
次に、遺跡内の竪穴住居を時計回りで順番に見ていきましょう。

Y-2号住居は、小型の竪穴住居を掘り広げて大型住居に立て替えたものです。

この日は中に入れなかったので、入口から中の様子を撮影しました。結構広そうです。

Y-11号住居は、床面積38.6㎡の大型住居です。
ここは中に入ることができました。

炉の両脇で寝起きしたとすると、居住人数は6人前後と考えれます。
中央に炉跡のような窪みが再現されていますね。

出入口のハシゴや弥生土器も再現されています。
竪穴住居は半地下式の家屋なので、出入口のハシゴは必須です。

Y-80号住居は大型住居で、ムラの長の住まいでした。

ここは、ムラの集会所としても使われていたそうです。

Y-68号住居は、小型住居を大型住居に立て替えたもので、この家では石器を作っていたそうです。


Y-71号住居は床面積44.3㎡で、8・8・6・4畳半の4部屋に相当する大きさです。

住居内では弥生土器が復元されています。

かなりの広さです!

最後に、Y-74号住居。
床面積27.0㎡の中型住居で、八畳間2部屋分に当たります。

大塚遺跡は発掘調査によって明らかにされた建築材料や構造などの基礎資料をもとに、弥生時代の「ムラ」の姿が再現されています。
何だか、今にも弥生人が現れそうな風景ですね・・
歳勝土遺跡(方形周溝墓群)

大塚遺跡に隣接する歳勝土遺跡は弥生時代中期の墓域遺跡で、大塚遺跡とセットで国の史跡に指定されています。
昭和47年の発掘調査によって多数の方形周溝墓が発見され、出土した土器などから大塚遺跡で生活していた人々の共同墓地であることが判明しました。
方形周溝墓とは、四方を溝で囲み、低く土を盛った墓のことです。弥生時代から古墳時代前期にムラの中で限られた身分の人が葬られたと考えられています。
歳勝土遺跡は大塚遺跡と同様に、遺跡の全体を厚さ約1.5mの盛土によって保護されており、現在見えている遺跡は、保護盛土の上に復元されたものです。
なお、発見された方形周溝墓のうち、北西部に分布する5基が3種類の方法(①埋葬当時の姿、②発掘調査によって出土した時の姿、③埋葬内部の姿)で復元されています。

奥から順にS-1号、S-4号、S-10号の方形周溝墓が並んでいます。
これらは埋葬当時の姿を現しています。
四方に溝が彫られ、掘った土などを積んだ盛り土が復元されています。

S-17号の方形周溝墓は発掘調査によって出土した姿を現しています。
多くの場合、方形周溝墓から見つかるのは四辺を囲む溝と中央の木棺を納めた穴だけです。
これは盛土が長い間に崩れたり、耕作によって削られたりしたためで、本来は溝を掘った土などを積んだ盛土があったものと考えられています。

S-16号方形周溝墓は、復元盛土の断面をカットして埋葬内部の姿を再現しています。
方形周溝墓の中央付近には四角い穴が見つかることがあり、木棺を納めた跡と考えられます。

木棺そのものは土の中で腐ってしまい残っていませんでしたが、四角い穴の中の細かな観察によって木棺が納められていた痕跡が確かめられています。
再現された木棺が少し朽ちた感じで、なかなかリアルですね。

大塚の「ムラ」から「歳勝土の墓地」までの「墓道」も再現されています。

歳勝土遺跡では25基の方形周溝墓が確認され、盛土の下に保存されています。
復元されなかった方形周溝墓については、石によって溝や穴の位置が示されています。
大塚遺跡と歳勝土遺跡は「住居域(ムラ)」と「墓域」が一体的に把握できる大変貴重な遺跡です。
まるで弥生時代にタイムスリップしたような感覚になりますよ・・
さて、弥生時代の次は江戸時代にタイムスリップしましょう。
都築民家園

大塚・歳勝土遺跡公園は遺跡以外にも見どころスポットがあります。
歳勝土遺跡の東側にある都築民家園に向かいましょう。

都筑民家園は江戸時代中・後期の民家「旧長沢家住宅」(主屋・馬屋)を中心に、屋敷林・茶室・竹林・池・庭などで構成される文化体験施設です。

旧長沢家住宅は、港北ニュータウン整備に伴い解体された民家の部材が横浜市に寄贈され、公園内に移築されました。

約200年前の建築様式を今に伝える貴重な歴史的建築物として、横浜市指定有形文化財に指定されています。

公園から程近いの旧牛久保村(現在の横浜市都築区牛久保町)で名主をつとめていた旧長沢家と周辺の様子。
昭和なのに江戸時代のようですね。

民家の中を無料で見学することができます。
入口に立つとまず目に飛び込むのは江戸時代の土間です。
まるで、時代劇のセットのようですね。

土間に据えられた三つ口の釜戸に並ぶ鉄鍋と木の蓋、それぞれが異なる料理を支えていたのでしょうか。
薪をくべる火のぬくもりや、煮炊きの音、湯気の立ちのぼる匂いまで想像できますね。

磨き上げられた黒光りする床板に、障子越しのやわらかな光がそっと差し込んで、まるで時間の流れがゆっくりになったような感覚になります。
また、天井のむき出しの梁や土壁と木のフレームが織りなす質感も見事で、静謐な美しさが際立っています。

囲炉裏と吊るされた鉄瓶は、この家の「語り部」のようです。
かつてここで火を囲み、家族が集って会話を交わしたのでしょう。

畳の間に差し込むやわらかな陽光と、障子越しに広がる紅葉の庭がとても美しいです。
縁側に腰かけて、風の音や落ち葉の舞う気配に耳を澄ませたくなります。

伝統的な日本家屋の中で客間や座敷に設けられた床の間。長沢家の家格の高さを表しています。

重厚な木のタンスに、鉄の金具が静かに光を返している姿が長い歴史を感じさせます。
タンスの上に置かれたひょうたんたちは、かつての暮らしの中で水を運び、飾られ、縁起物にもなりました。
その隣にちょこんと置かれたそろばんがまた、生活の息づかいを感じさせますね。

江戸時代、農家の馬屋には、実際に農耕馬や荷運び用の馬が飼われていました。
馬は田畑を耕す力強い相棒であり、時には村の中での物資の運搬にも使われていたことでしょう。
現在の馬屋には、長沢家に残されていたであろう暮らしの道具類が納められています。
収穫後の稲わらを柔らかくする「わら打ち機」、稲や麦をしごく「金ごし」、米と籾ぬかを分ける「とうみ」など貴重な農具の展示は博物館並みです。

この風景もまた時代劇の一場面から切り取られたかのようですね。
茅葺き屋根と土壁、そして木の格子窓がつくる素朴な佇まいに、荷車や牛車に使われていたであろう木製の車輪が寄り添うように立てかけられています。

石組みの井戸は、かつての生活の命綱。
木の蓋がかけられ、今は静かに佇んでいますが、かつては朝な夕なに水を汲む音が響いていたのでしょう。
左側にある木製の水路のような構造物は、水を導くための樋や水槽でしょうか。
高低差を利用して水を流し、洗い物や農作業に使っていたのかもしれませんね。

こちらは旧長沢家住宅ではなく、都築民家園の「茶室」鶴雲菴と輪亭です。
茶室は、伝統工法に準拠した数寄屋造りにより建築されており、八畳の広間「輪亭」、三畳台目の小間「鶴雲菴」などがあります。(利用・見学は事前に申し込みが必要)

茶室の屋根には秋の落ち葉がふんわりと積もり、池の水面にも紅葉が浮かぶ様子は晩秋の風情を感じます。

掲示板を見ると様々なイベントが目白押しです。
建築物として歴史的価値の高い文化財であるだけでなく、日本の伝統文化を体験できる施設として活用されていることが伺えます。

遺跡を見に来たついでに立ち寄った古民家でしたが、見応えがありすぎて得した気分です♪
横浜市にはこのような古民家を復元した公園が8ヶ所もあるそうなので、他の7ヶ所も是非行ってみたいですね。
横浜市歴史博物館

本当は遺跡公園に行く前の予習として横浜市歴史博物館を見学すべきですが、今回は帰りに寄って復習しました。

広い館内には、弥生時代の出土品やリアルな模型が多数展示されており、楽しみながら勉強できます。
じっくり見学すると常設展だけで1時間以上かかりますので、時間に余裕をもって出かけましょう。

横浜市営地下鉄 センター北駅まで戻ってきました。
すっかり日が暮れて、駅前のツリーや観覧車もライトアップ!
駅前商業施設も充実していて賑やかな駅前です。
ここから徒歩10分足らずの場所に弥生時代の遺跡があるとは思えないほどの繁栄ぶりです!
今回は横浜市の大塚・歳勝土遺跡を中心とした歴史散歩のご紹介でした。
教科書で見て知っている光景でも、実際にその地に立つと想像以上の臨場感です。
この週末は、大塚・歳勝土遺跡公園に足を運んでみてはいかがでしょうか🚶➡️
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