日露戦争で活躍した明治の軍神・東郷平八郎を祀る『東郷神社』と乃木希典を祀る『乃木神社』
彼らは戦における戦略・戦術に長けていただけでなく、厚い人望や誠の精神で日本を救い、遂には神となって崇められるようになりました。
今回は、この二つの神社を歩きながら、ふたりの将軍の魂に触れる旅へご案内します。
原宿駅から東郷神社へ

JR原宿駅の竹下口をスタートします。
『原宿』の由来は、かつて広大な野原が広がっていたことから『原』と呼ばれ、そこに鎌倉街道の宿場町が出来て『原宿』になったそうです。

「若者文化」と「カワイイ文化」の発信地として有名な竹下通りは毎日がお祭りのような活気に溢れています!

1976年に渋谷で創業した「マリオンクレープ」は日本初の紙巻きクレープ専門店として知られ、原宿・竹下通り店は1977年に出店した同社の基幹店です。
入れ替わりの激しい繁華街で半世紀近く人気を維持し、今や原宿の名所と言っても過言ではありません。

マリオンクレープの角を左折すると東郷神社入口の案内があります。
東郷神社

東郷神社は日露戦争でバルチック艦隊を撃破した海軍大将・東郷平八郎を祀る「必勝祈願」の神社として知られています。

東郷平八郎は薩摩藩士として薩英戦争や戊辰戦争を経験して海軍の道へ進みました。
明治4年から7年間、イギリスに留学して航海術や国際法を学び、日清戦争においては防護巡洋艦「浪速」の艦長として活躍。
日露戦争の日本海海戦では敵前で大回頭を行うという大胆な作戦 “東郷ターン” でロシアのバルチック艦隊を撃破し、日本の勝利に大きく貢献しました。
また、「至誠(まごころ)は神に通じる」という信念を生涯貫いた誠実な人物であったことでも知られています。

昭和9年(1934年)、東郷平八郎が88歳で死去した後、全国各地から海軍省に対して東郷平八郎を顕彰する神社創建の要望と献金が相次ぎました。
当時の海軍大臣・大角岑生が識者と相談して「東郷元帥記念会」を設立し、広く全国民に呼び掛け、昭和15年に東郷神社が創建されました。
創建の経緯を知ると、東郷平八郎がいかに国民から敬愛されていたかが分かりますね。


境内摂社として、海軍・海事・水産関係者の諸霊を祀る「海の宮」も鎮座しています。
海の仕事に関わる人々の心の拠り所であり、海の安全や繁栄を祈るパワースポットです。

本殿を囲む瑞垣の上部には東郷平八郎の生い立ちや功績を紹介するパネル展示があり、参拝者がその歩みを辿れるようになっています。


「海軍特年兵の碑」は太平洋戦争勃発直前の昭和16年に創設された「海軍特別年少兵制度」のもと、14歳という若さで志願し、戦地に赴いた少年兵たちの魂が刻まれた慰霊碑です。
碑板に刻まれた香淳皇后の御歌には若くして命を捧げた少年兵たちへの深い哀悼の意が込められています。
“やすらかに ねむれとぞ思ふ 君のため いのちささげ志 ますらをのとも”
なお、昭和46年の除幕式においては高松宮両殿下が臨席されました。

「潜水艦殉国碑」は太平洋戦争で亡くなった一万余人の潜水艦乗員らの英霊が祀られています。
潜水艦横断面を型どった碑の司令塔部分に、実潜望鏡をはめ込み、碑面には「殉国」の二文字が刻まれています。
殉国碑の隣には碑文と魚雷模型が設置されており、魚雷模型は旧海軍館の庭にあったものです。
(実物に似せて作られていますが、サイズは少し小さめだそうです)

東郷神社の参道に並ぶのぼりには、カラフルな「Z旗」が描かれています。
もともと「Z旗」は国際信号旗の一つで、「引き船を求める」という意味を示す信号ですが、日本においては“勝利のシンボル”、“絶対に負けられない戦い”の象徴としてスポーツ競技の応援や受験などの勝利を祈願する場合に用いられています。

「Z旗」が「必勝祈願」と結びつくきっかけになった出来事は、日露戦争の日本海海戦です。
東郷平八郎は連合艦隊の旗艦「三笠」の艦上にZ旗を掲げ、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」と全軍の士気を高め、見事に勝利を収めました。
カッコ良すぎますね!

境内のあちこちに「Z旗」が隠れていますので探してみるのも楽しいですね。

今回は神社の裏参道から入って通り抜ける感じになりましたが、こちらが東郷神社の正面・表参道の入口になります。
大きな社号標と茶色い鳥居の奥には庭園もあり、都会のオアシスという言葉がぴったりの神社です。
ここから、次の目的地へ向かいましょう🚶🏻➡️
原宿発祥の地

東郷神社から乃木神社へ向かう途中に妙円寺というお寺があります。

妙円寺の境内には「原宿発祥之地」と刻まれた石碑が建っています。
この石碑は昭和40年の住居表示変更で『原宿』という地名が消えたことを惜しんで、地元の人たちが記念として建てたものです。

閑静な住宅街の中にある妙円寺は寛永4年(1627年)創建の日蓮宗の寺院です。
鎌倉街道の宿場町・原宿は妙円寺付近にあったとされています。
江戸時代から続く歴史の重みを感じながら手を合わせておきましょう。
ちなみに、妙円寺は「輝け!お寺の掲示板大賞2023」にて大賞を獲得しており、掲示板にも注目です。
この日の名言は『あなたの人生だから あなたが決めていい』でした。
心に沁みますね。。
乃木希典の墓所

さらに歩みを進め、青山霊園を通ります。
青山霊園は明治7年(1874年)に開設された日本初の公営霊園です。
ここには明治維新の功労者や文学者、芸術家、政治家など数多くの著名人が眠っていますが、乃木神社の御祭神・乃木希典の墓所もここにあります。

ここで、乃木希典について簡単にご紹介させていただきます。
乃木希典は明治時代に活躍した陸軍軍人で、日露戦争において旅順攻囲戦を指揮し、日本の勝利に貢献した人物です。
また、日露戦争後は明治天皇より第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)の教育係も務めました。
最終階級は陸軍大将で、「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれて国内外から深く敬愛されています。
しかし、明治天皇崩御後の大喪の礼が行われた大正元年9月13日、妻・静子とともに殉死するというまさか最期を遂げ、国内外に大きな衝撃を与えたことでも知られています。

青山霊園の広さは約26ヘクタール。都心の一等地にあって緑も豊かです。
また、近代的な高層ビルに囲まれつつも開放的な空間が広がります。
これだけ広いと乃木将軍の墓所を見つけるのは大変なので、ルートをご案内します。

乃木将軍の墓所は「乃木将軍墓道」の石碑前の道を東へ進みます。

東京都立青山特別支援学校の前を抜けて、「一種口10号」の案内が見えたら右へ曲がります。


この道は「乃木将軍通り」という分かりやすい名前になっています。

50メートルほど進むと右手に「乃木将軍墓所」の石碑が目に入ります。

乃木将軍の墓所は柵で囲まれていて中に入ることはできませんが、中央の丸みのある墓石が建つ場所が乃木将軍が眠る墓で、その隣には静子夫人の墓も並んでいます。

横から見ると夫婦仲睦まじく並んでおり、その隣には大きな燈籠も建っています。

また、乃木夫妻と向い合せに建っているのは父・希次、母・壽子、長男・勝典、次男・保典の墓です。
父・希次は長州藩士で教育者でもありました。
母・壽子は信仰心が厚く厳格で芯の強い女性で、希典の思想や生き方に影響を与えたと言われています。
長男・勝典と次男・保典は、希典とともに日露戦争の戦地に赴きましたが残念ながら戦死しました。
長男と次男を相次いで亡くした希典の本心は計り知れませんが、妻・静子に対して「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ」と口にしたそうです。

実は、乃木将軍墓所のすぐ傍に、東郷家の墓所もあります。
折角なので、ちょっと寄っていきましょう。

東郷平八郎本人の墓は多摩霊園にあるのですが、東郷家の一部(母・益子や甥の吉太郎など)は青山霊園に眠っています。
東郷平八郎は生前、母・益子が眠る青山霊園への埋葬を希望していましたが、国家に大きな功績を残した人物のみが眠る多摩霊園の名誉霊域に埋葬されました。
本人の希望と国の意向のズレがあって、ちょっと気の毒ですね・・

東郷平八郎の母・益子は五男一女をもうけましたが、子供への教育は厳しくも深い愛情に満ちていて、子どもたちの寝室を通るときは枕元を避けて足元を通るほどの敬意を払ったと伝えられています。


再び、乃木将軍通りに戻り、南へ進みます。
乃木将軍通りはそのまま乃木神社へ繋がるかのように、霊園の東側を走る環状三号線まで続いています。
旧乃木邸・乃木公園

乃木神社を参拝する前に隣地にある旧乃木邸を見学しておきましょう。
ここは外苑東通りと乃木坂に面した乃木公園の一部です。
旧乃木邸を含む乃木公園は、乃木希典の遺言により東京市に寄贈され、現在は港区により管理されています。

現存する邸宅は乃木希典がドイツ留学中に見たフランス連隊本部の建物を模して、明治35年(1902年)に建てられました。
外観は、いかにも軍人の家らしく、黒塗りの板張りで飾り気がなく簡素なデザインです。
通常は邸内に入ることは出来ませんが、定期的にイベントとして邸内も一般公開(無料)されています。
詳しくは港区赤坂地区公園情報サイトをご確認下さい。

邸宅のすぐ隣には、旅順開城時に乃木大将とロシアのステッセル中将との会見の場となった「水師営の庭」にあった棗(ナツメ)の樹の孫(3代目)が植えられています。

ステッセルの名前が出てきたところで、「水師営の会見」について簡単に解説します。
日本軍が激戦地・旅順を陥落させ、停戦条約が締結された直後の明治38年(1905年)1月5日、乃木大将は敵将ステッセルとの会見に臨みました。
この会見の場所が「水師営(中国清朝・北洋艦隊隊員の駐屯地)」で行われたので「水師営の会見」と呼ばれています。
この時、乃木大将は敗者の名誉を傷つけることの無いよう極めて紳士的に対応しました。
例えば、①敗軍の将であるステッセルに帯刀を許す、②対等な立場で酒を酌み交わして打ち解ける、③従軍記者たちが何枚も写真を撮りたがる中、撮影を制限するなど。
(上記写真は、帯刀したステッセル中将と友人として会っている場面であれば・・、と言って許可し、撮影された唯一の記念写真です)
こうした乃木大将の振る舞いは「日本の誇り高き武士道の精神」を象徴する出来事として世界的に賞賛されました。

さて、乃木希典の精神と人柄を理解したところで旧乃木邸の部屋を覗いてみましょう。
旧乃木邸の周りには見学用の回廊が設置されていますので、窓越しに部屋を見ることができます。

大応接室には日露戦争中に日本軍が野戦病院として使用していた水師営の手術台が展示されています。
水師営の会見の際には、この手術台がテーブル代わりに使用されました。
手術台は2台並べて使用され、もう一台は中国大連市に1996年に復元された水師営会見所で保存・公開されているそうです。

大応接室は1階表玄関と直接通じていて、大将居室と近すぎるとして大工から懸念されたとのエピソードが残されています。
乃木大将が徹底的に合理化を追求していたことが伺える間取りとなっています。

そして、この部屋が乃木大将の居室として使用されていた部屋です。
大正元年9月13日、明治天皇大葬の当日、棺が出発する合図の号砲が打たれた午後8時過ぎに乃木大将と静子夫人はこの部屋で殉死を遂げました。
案内板には「殉死の室」と書かれています。
遺書には「西南戦争で軍旗を失ったことへの責任をとるため」などと記されているそうです。
(当時、軍旗は天皇から授けられるものであり、天皇の分身のように扱われていた)

旧乃木邸は邸宅以外にもいくつかの見どころがあります。
その一つが、「乃木大将と辻占売り少年像」です。
乃木希典が少将時代に金沢を訪れた折、辻占(占い付きの砂糖菓子)を売って一家の生計を支えている少年に感銘を受け、金弐円を手渡して励ますという乃木大将の人となりを伝える銅像です。
なんと、この時の少年は今越清三郎という人物で、この出会いの後、努力を重ねて金箔職人として頭角を現し、金閣寺再建の金箔も手掛けるなどの功績が評価されて無形文化財にも指定されたそうです。

馬小屋は現存する家屋が建築される以前の明治22年(1889年)に建てられました。
煉瓦造り、瓦葺きの平屋建てで家屋より立派であったため「新坂の馬屋敷」と評判になりました。
陸軍軍人の乃木大将は馬をとても大切にし、この馬小屋の煉瓦はイギリスから取り寄せたものだそうです。
現在、旧乃木邸と馬小屋は港区の有形文化財に指定されています。

乃木大将の正馬壽号はロシアのステッセル中将が水師営の会見の際に乃木大将の武勇を称えて贈ったアラビア産の牡馬です。
乃木大将はその志に感謝しつつも、軍規に従ってすぐには受け取らず、後日正式に譲り受けて「壽号」と名付けました。
後に、壽号は種馬として日本の軍馬改良にも貢献したそうです。

元乃木家菜園は乃木夫妻が食糧を自給したとされる家庭菜園があった場所で、慎ましく質素な暮らしぶりを感じられます。

乃木大将夫妻 瘞血之處という石碑には花が手向けられています。
ここは殉死された時の血のついた物を埋めた場所だそうです。 ちょっと、恐ろしいですね・・

先ほどの馬小屋の奥から乃木公園への出口がありますので、ここから出てみます。


乃木公園の入口付近には「乃木神社」の小さな社号標があり、よく見ると左下に「東郷平八郎書」と見えます。
乃木希典と東郷平八郎は同じ時代を生きた軍人同士で、互いに深い敬意を抱いていたことが伺えます。

乃木公園の南エリアは傾斜地になっていて、階段を挟んで上側と下側にそれぞれ休憩スペースあります。
階段下の中央部には桜の大木があり、春には満開の桜を階段上から見下ろして鑑賞できます。
乃木神社

そして、いよいよ乃木神社です。
公園から直接神社境内に入ることもできますが、一の鳥居から入りなおすことにします。
乃木神社の創建は大正12年11月1日。御祭神は乃木希典命と乃木静子命です。
大正元年9月13日に殉死を遂げた乃木夫妻の忠誠心に感動した人々は、こぞって乃木邸を訪れました。
その数は日を追うごとに増え、まるで聖地巡礼のような状況だったそうです。
また、訃報は日本国内にとどまらず欧米の新聞においても報道され、特に「ニューヨーク・タイムズ」では1面と2面を丸ごと使って乃木希典の生涯や殉死の背景を詳しく紹介しました。
そして、当時の東京市市長・阪谷芳郎が先頭に立って広く同志を集めて「中央乃木会」を組織し、乃木邸内の小社に夫妻の御霊をお祀りしました。

その後、大正8年(1919年)に乃木神社創建の許可がおり、大正12年(1923年)11月1日に鎮座祭が行われて正式に乃木神社が創建されました。
また、乃木神社は全国に10社以上あり、乃木希典ゆかりの地に点在しています。
このことは乃木希典が広く国民に敬愛されていたことを裏付けています。

乃木神社の境内図を見ると、乃木神社と旧乃木邸・乃木公園の位置関係がよくわかります。

白木でできた二の鳥居は清浄さと神聖さを感じます。

都会の喧騒のすぐ傍にあるのに、静寂で緑豊かな落ち着きのある雰囲気の境内です。

最初の社殿は大正12年(1923年)に創建されましたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失してしまいました。
その後、全国の崇敬者の熱意により、昭和37年(1962年)に復興されました。

乃木神社と言えば、アイドルグループ「乃木坂46」の聖地としても有名です。
乃木坂46のメンバーが成人式を乃木神社で行うことが恒例になっていたり、メンバーが書いた絵馬が飾られているなど、ファンには堪らない神社と言えます。
特に絵馬記入所付近には、ファンからメンバーに宛てた応援メッセージが記された絵馬がびっしり飾られています。

境内にある教育の碑には明治天皇の御製が刻まれています。
この御製は明治41年に乃木希典が学習院院長に任命された際に賜ったものです。
“ いさをある人を をしえの親にして おほしたてなむ やまとなでしこ ”
乃木希典のような国家に勲功ある人物を教育者として立て、日本の未来を担う子弟を立派な大和撫子を育てたい、という天皇の深い教育理念が込められています。
この碑は、乃木希典が軍人であると同時に教育者としても尊敬されていた証と言えるでしょう。

折角なので、よりそひ橋(写真右手)を渡って境内摂社の正松神社にも参拝しましょう。

よりそひ橋を渡ると左手に「正松神社」、右手に「つれそひ回廊」があります。
つれそひ回廊は夏になると風鈴がずらりと飾られる「つれそひ風鈴回廊」としても知られており、涼やかな音が境内に響くそうです。

正松神社に祀られているのは、乃木希典が師事した玉木文之進(松下村塾の創始者)と、その甥で乃木が深く敬慕した吉田松陰です。
どちらも松下村塾に関わる偉人として知られますが、乃木希典の人格形成に大きな影響を与えたと考えられ、乃木神社戦災復興を機に萩の松陰神社から御分霊を勧請して創建されました。
学問の神様として、特に受験生に人気です。

二の鳥居付近にある「赤坂王子稲荷神社」もフォトジェニックな千本鳥居が人気の境内末社です📸✨

昭和37年(1962年)、乃木夫妻が生前に崇敬していた北区の「王子稲荷神社」から御分霊を勧請して創建されました。
五穀豊穣・商売繁盛・家内安全・学業成就など幅広いご利益があるとされています。

乃木神社の案内はここまでです。
最後に乃木坂の由来について、乃木神社の入口付近に興味深い案内板がありましたのでご紹介します。
乃木大将の殉死された大正元年九月以来幽霊坂が乃木坂と改名された
乃木坂の名前が乃木希典に由来することは容易に想像がつきますが、それ以前の名前が幽霊坂だったとは・・

ちなみに、江戸時代までこの辺りは昼間でも木々に遮られて薄暗く、「幽霊が出そうな場所」として住民に恐れられたことから幽霊坂と呼ばれていたそうです。

乃木神社は東京メトロ乃木坂駅の1番出入口に隣接しています。
今回は明治の軍神「東郷平八郎」と「乃木希典」を祀る神社をご案内しました。
勝利の神と崇められる二つの神社には、それぞれの人生の勝負ごとや成功を願う参拝者が後を絶ちません。
僅か120年前、史上最大の番狂わせを成し遂げた日本の英雄たちの足跡を訪ねてみませんか。

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