東海道五十三次の2番目の宿場『川崎宿』の歴史散歩後半戦!
今日は京急川崎駅から京急八丁畷駅までを歩きます。


駅の出口から旧東海道までは100mくらいです。
東海道川崎宿の石碑

砂子(いさご)交差点前は川崎市の中心部です。


旧東海道に出て西へ進んだところに「東海道川崎宿」の立派な石碑が建っています。
街道松と並んで宿場の演出が絵になります。
旧東海道「いさご通り」

砂子交差点から南西方面に伸びる通りは「いさご通り」と呼ばれています。


川崎信用金庫本店のシャッターには歌川広重の東海道五十三次が描かれていました。
さすが、地域密着の信用金庫さんですね。休日でも地域の活性化に一役買っています。


よく見ると、灰皿も東海道川崎宿ラッピングデザインです。

小土呂橋跡


かつて、ここには幅5mほどの「新川堀」という堀がありました。
この堀と東海道が交わる地点に架けられていた橋が「小土呂橋(こどろばし)」です。
堀は昭和6年~8年に埋め立てられましたが、橋の名残として親柱がここに移設・保存されています。

川崎宿 京入口跡

川崎宿の京都側の入り口を示す「川崎宿京入口」の案内板があります。
幕末には外国人警護のための番所が置かれたそうです。
教安寺

「川崎宿京入口」の案内板の裏側に「教安寺」の案内板があります。行ってみましょう。

天文22年(1553年)創建の浄土宗のお寺です。
江戸時代に鋳造された梵鐘や、徳本上人による六字名号(南無阿弥陀仏)碑があります。
東海道を行き交う多くの旅人たちも立ち寄ったことでしょう。

石燈籠は天保11年(1840年)に建てられたもので、当時大流行した富士講(富士山に対する信仰を基盤とした民衆信仰)の一派で川崎宿で活動した「タテカワ講」によって建てられたそうです。
川崎市立川崎小学校

東海道に戻って京都方面へ歩みを進めると、毛筆体で書かれた「川崎市立川崎小学校」の案内板が目に留まりました。


明治6年(1873年)に創立した歴史ある小学校です。
校銘板がカッコよすぎる・・

しかも、卒業生が超大物です!
阪神ファンに愛される「六甲おろし」を作詞した詩人が川崎市出身とは意外ですね。
坂本九さんの本名は「ひさし」さんだったんですね。

昭和40年代まで主流だった昔懐かしい丸形郵便ポストは、わざわざ秦野市から移設したそうです。
川崎宿まちづくりの意気込みを感じますね。
芭蕉ポケットパーク


芭蕉ポケットパークは旧東海道沿いにある馬嶋病院の1階部分にあります。
川崎宿を散策する人の休憩場所となっているほか、芭蕉との別れの際に弟子たち詠んだ句が紹介されています。

文化3年(1806年)に完成した「東海道分間延絵図」は江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図です。
川崎宿周辺の道の曲がり具合など、当時の東海道の様子に思いを馳せることができます。

江戸時代前期の俳諧師「松尾芭蕉」は、元禄7年(1694年)初夏に江戸を旅立ち、故郷の伊賀上野に向かいました。
弟子たちは、川崎宿の外れまで師匠を見送り別れました。
芭蕉の句碑

芭蕉が伊賀上野へ帰郷する際、この地で門弟たちと別れました。
『麦の穂をたよりにつかむ別れかな』
実際にこの地で惜別の思いを詠み、それから約130年後の1830年に句碑が建てられました。

句碑の傍には投句箱が設置され、芭蕉の句碑保存会が投句を受け付けています。
無縁塚 ~無縁仏の供養塔~

京急八丁畷駅東口の踏切を渡ります。


八丁畷駅の北側の一角は無縁塚と呼ばれています。
江戸時代、川崎宿は震災や大火・洪水などの災害にたびたび襲われました。
亡くなった身元不明の人々の霊を供養するため、ここに慰霊塔が建てられました。

無縁塚の向かい側には旧東海道の石碑と川崎宿史跡めぐりの案内板があります。
八丁畷駅

京急八丁畷駅西口改札です。JR南武線も乗り入れています。

ちなみに八丁畷の由来は川崎宿の京口(京都側の出入り口)から西へ八丁(約870メートル)にわたり、畷(田畑の中のまっすぐな道)が伸びていたことに由来します。
川崎宿の歴史散歩後編はここまでです。お疲れ様でした。

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