かつて東海道の4番目の宿場町として栄えた『保土ヶ谷宿』は、慶長6年(1601年)に宿駅・伝馬制度が定められると同時に設置されました。今回は相鉄線・天王町駅を出発し、往時の面影を今に伝える見どころを巡りながら、宿場の東の境界である江戸方見附跡から西の境界である上方見附跡へと向かう散歩コースをご紹介します。
大名が泊まった本陣跡や旅籠の遺構、そして難所の権太坂を前に旅人たちが一息ついた茶屋町の歴史など、現代の街並みに隠された江戸時代の記憶を当時の旅人気分で一緒に紐解いていきましょう!

相鉄・天王町駅の東口をスタートします🚶➡️
本陣とは逆方向ですが、保土ヶ谷宿の入口・江戸方見附跡を目指し、一旦 東へ向かいます。
江戸方見附跡 ~ 東の玄関口 ~

「江戸方見附跡」は保土ヶ谷宿の東の玄関口です。「見附」とは、宿場の境界に設置された門や土塁のことで、宿場の治安維持のために設けた検問所のような設備です。
各宿場の江戸側には「江戸方見附」、京都(上方)側には「上方見附」があり、その間が宿場の範囲(宿内)とされていました。現在は「江戸方見附跡」には案内板が設置されているのみですが、ここから外川神社付近の「上方見附跡」まで約2kmが保土ヶ谷宿の範囲になります。

では、改めてここから保土ヶ谷宿の中心部を目指して歩いていきましょう🚶➡️
江戸時代、大街道(東海道などの五街道)の道幅は6間(約10.8m)と定められていました。この道路も当時の歴史的な道幅をベースに生活道路として整備されている様子がうかがえます。
橘樹神社 ~ 天王町の地名の由来 ~


江戸方見附からほど近い天王町に鎮座する「橘樹神社」は、鎌倉時代初期の文治2年(1186年)に、天下を平定した源頼朝が京都の祇園社(現在の八坂神社)から御分霊を勧請(神様の霊を分けてもらい、別の場所へ祀ること)したことが始まりと伝えられています。

京都の祇園社から神様を招いたことから、創建時の社名は「祇園社」でした。その後、江戸時代になると祇園社の祭神である牛頭天王(ごずてんのう)にちなんで「牛頭天王社」となり、宿場の人々から「天王様」と親しまれたことが、現在の地名「天王町」の由来となっています。(現社名の橘樹神社となったのは大正10年)

明治元年(1868年)には、明治天皇が京都から東京へ向かう東京行幸(東幸)の際に立ち寄られた由緒ある神社です。

橘樹神社の境内裏手には寛文9年(1669年)に作られた横浜市最古の「青面金剛(庚申塔)」が安置されています。弓矢の代わりに羂索と棒を持つ極めて珍しい意匠が特徴です。もともとは流行病を流行らせる「悪鬼」でしたが、後に改心して「病を駆逐する善神」へと変わったと伝えられています。
帷子橋から旧帷子橋跡へ

旧東海道の面影が薄れつつある中、天王町駅の140m手間には旧東海道の路面標示が施されています。歴史的な遺構が少ない場所でも、この標識を辿ることで「今まさに旧東海道を歩いている」と実感できますね😊


帷子川(かたびらがわ)は、横浜市旭区を水源として保土ヶ谷区を抜けて横浜港へと注ぐ全長約17kmの二級河川です。昭和39年の河川改修で流路が北側へ移されました。かつて天王町一帯は片方が山で、片方が平らな田畑であったため「片平(かたひら)」と呼ばれていたことから「かたびらかわ」と呼ぶようになったとされています(諸説あり)

再び天王町駅の高架下を通ります。幅は狭いですが、この高架下も立派な「旧東海道」です。

昭和39年(1964年)の河川改修以前、帷子川は天王町駅の南側を流れていました。
現在、天王町駅前公園に「旧帷子橋のモニュメント」が設置されています。

このモニュメントがある場所は、江戸時代に絵画に描かれたり、歌や俳句に詠まれるなど保土ヶ谷宿を象徴する風景でした。特に歌川広重が描いた『東海道五十三次之内 保土ヶ谷』は有名ですね。
なお、橋を渡った先が保土ヶ谷宿の「新町」という町域であったため、「帷子橋」は「新町橋」とも呼ばれていました。



旧帷子橋跡は橋の欄干、常夜灯、街道松などがきめ細かく整備されており、横浜市地域史跡に登録されています。

では、東海道の旅を続けましょう🚶➡️

ここからしばらくは環状1号線と合流するため、旧東海道の面影は薄れますが、よく見ると石造りの椅子が設置してあり、多少の風情を醸し出しています。
香象院 ~ 保土ヶ谷宿 最大規模の寺子屋 ~

旧東海道に面した好立地にある香象院(こうぞういん)は高野山真言宗の寺院で、天正11年(1583年)の中興と伝えられます。当時の旅人にとって、街道沿いの立派な門構えの寺院は参拝スポットとなったことでしょう。

香象院は宿場内で最大規模の寺子屋が開かれていたことで知られています。子供たちの読み書きする声や活気ある雰囲気は、長旅を続ける旅人にとっても、心休まるものだったことでしょう。
※教育への貢献は明治以降も続き、明治6年(1873年)には保土ヶ谷小学校の分校が境内に設置されました。


境内には巨大な鉄釜や、寺名にちなんだ可愛らしい象の石像など、写真映えするユニークな見所が点在しています。
旧中橋跡 ~ 知られざる幕末の大改修 ~


現在は旧東海道と並行して流れる今井川は、かつてこの場所で宿場を横切るような川筋だったため「中橋(なかのはし)」という橋が架かっていました。
しかし、その川筋の構造から大雨のたびに水が滞り、しばしば下流域を浸水する被害が出ていました。

当時の川筋は、そのまま道路として残っており、かなりの急カーブだったことが分かります。

幕末には人馬の往来が急増したため、川筋を改修する大工事が行われました。
現在の今井川は旧東海道の南東側を流れていますが、その改修で発生した大量の残土は、当時建設中だった品川台場の埋め立てに活用されました。
宿場の治水事業が巡り巡って幕末の海上防衛を支えたという、非常にスケールの大きな歴史が眠るスポットなのです。
助郷会所跡 ~ 宿場を支え続けた農民たち ~

しばらく進むと左手にJR保土ヶ谷駅が見えてきます。

旧東海道は駅の方向ではなく、真っ直ぐ進みます。(ココカラファインの前の道)

道幅が街道っぽくなりましたね。

「助郷」とは、宿場で賄いきれない人馬を指定された周辺の村々から動員することで、指定された村は「助郷村」と呼ばれました。助郷は東海道が整備されてから交通量が増加してきた17世紀後半頃に制度化されていきました。「助郷会所」とは、宿場の人馬が不足した際に周辺の村々から動員された助郷たちの詰所です。
保土ヶ谷宿には約40の助郷村があり、各村の代表が助郷会所に出勤して問屋場の指示に対応したり、人馬の割り当てが不公平になったり不正に使用されないように監視する場所でもありました。

現在は標柱が立っているのみですが、宿場を支え続けた農民たちの苦労を今に伝える貴重な史跡です。
問屋場跡 ~ 宿場の公的業務を担う中枢施設 ~

「助郷会所跡」のすぐ近くに「問屋場跡」の案内板があります。

問屋場は、幕府公用の役人や大名行列の荷物運搬(人馬継立)、公用書状の通信(継飛脚)、宿泊手配など、宿場の公的業務を担う中枢施設でした。問屋場には問屋を筆頭に年寄・帳付・馬指などの宿役人が詰めて運営にあたっていました。
ここで賄いきれない人馬を周辺の村から動員するのが、先ほど登場した「助郷」です。
高札場跡 ~ 法令を記した江戸時代の掲示板 ~


「高札場」は幕府や領主が法令を記した木の札(高札)を掲示した施設で、宿場の中心地に設置されていました。また、隣の宿場までの荷物運搬料や旅籠の宿泊代といった、宿場の利用ルールを細かく記載した高札も掲出されました。
保土ヶ谷宿のものは正徳3年(1713年)に普請され、幅約4.5m、高さ約3.6mに及ぶ大規模なものでした。
金沢横丁 道標四基 ~ 金沢道との分岐点 ~

この場所は旧東海道から金沢・鎌倉・浦賀方面へ向かう「金沢道(かなざわみち)」との分岐点で「金沢横丁」と呼ばれていました。江戸時代に建立された4基の道標(金沢横丁道標四基)が現存しており、横浜市指定有形民俗文化財に指定されています。

4基の道標は右から順に次の通りです。
①圓海山之道(えんかいざんのみち) [1783年建立]
「峯のお灸」で有名な円海山・護念寺への道案内。
多くの人が健康祈願に訪れました。
②かなさわ、かまくら道 [1682年建立]
金沢や鎌倉へ向かう旅人のための基本的な道案内で、4基の中で最も古い。
左面には「ぐめうじ(弘明寺)道」と刻まれており、坂東三十三所観音霊場の一つである弘明寺への参拝客も導いていました。
③杉田道(すぎたみち) [1814年建立]
梅の名所として知られた「杉田梅林」への道案内で、句碑を兼ねたユニークな道標。
正面に「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花 其爪(きそう)」と俳句が刻まれています。
④富岡山芋大明神社の道(とみおかいもだいみょうじんのみち) [1845年建立]
金沢区富岡にある長昌寺の「芋明神」は、当時恐れられていた天然痘(ほうそう)の守り神として厚い信仰を集めていました。
それぞれ役割の異なる4つの道標は、かつて交通の要衝として賑わった保土ヶ谷宿の面影を今に伝える貴重な史跡です。

また、道標と併設された「程ヶ谷宿お休み処(程ヶ谷宿番所)」は、保土ヶ谷宿(程ヶ谷宿)を訪れる人のために地域の方々がボランティアで運営している案内・休憩スポットで、保土ヶ谷宿の歴史に関する書籍やパンフレットも置かれています。
※開館時間:月曜日を除く毎日 12:00〜15:00

JR東海道本線の大きな踏切を渡って、本陣へ向かいましょう🚶➡️
本陣跡 ~ 大名が泊まった最高級宿舎 ~

踏切を超えて国道1号線との交差点(保土ヶ谷町一丁目交差点)の向かい側に「本陣跡」があります。

「本陣」は幕府の役人や参勤交代を行う大名が宿泊した最高級の宿舎です。慶長6年(1601年)の宿場成立とともに設置され、代々、小田原北条氏の家臣の末裔である「苅部(かるべ)家」がその重責を担いました。
苅部家は問屋や名主も兼ねる宿場内で最も権威ある家柄でした。安政6年(1859年)の横浜開港時には、10代当主・苅部清兵衛悦甫が横浜の街づくりに貢献するなど、地域の発展に深く関わりました。

現在は当時を偲ばせる門が残っています。宿場成立以来、数えきれないほどの参勤交代の大名がこの門をくぐり、休息や宿泊をしてきたのでしょう。

地面には旧東海道の路面標示が施されています。

こちらは、1965年に横浜市が設置した本陣跡の石碑です。石碑にも60年以上の歴史を感じます。。
脇本陣跡 ~ 本陣を補佐する予備の宿舎 ~

本陣の周辺には「大金子屋」「藤屋」「水屋」という3軒の脇本陣も置かれていました。
「脇本陣」は本陣の予備的施設で、本陣だけでは泊まりきれない場合や、藩同士が鉢合わせになった場合に格式が低い藩の宿として利用されるなど、宿場の運営を支えていました。
なお、本陣は原則として一般客の宿泊は認められませんでしたが、脇本陣は大名や勅使などの利用が無い時に限り、一般客の宿泊にも開かれていました。
ちょうど、本陣の向かい側には脇本陣の「大金子屋」跡碑が立っています。大金子屋の建坪は119坪でした。

本陣跡から100メートルほど進むと、脇本陣の「藤屋」跡碑が立っています。
藤屋の建坪は119坪で大金子屋と同じでした。

藤屋跡からさらに50メートルほど進むと脇本陣の「水屋」跡碑と保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設に関する説明板が立っています。現在は保土ケ谷消防署本陣消防出張所になっています。
水屋の建坪は128坪なので若干広いですね。なお、本陣の苅部家は建坪が270坪あったとされていますので、脇本陣はその半分弱の広さだったことが分かります。
旅籠屋・本金子屋跡 ~ 当時の面影が残る歴史的建造物 ~

さらに100メートルほど進むと「旅籠屋・本金子屋」跡があります。

本金子屋は、当時の宿場町の面影を今に伝える歴史的な建造物です。

現在の建物は明治2年(1869年)に建て替えられたものですが、伝統的な格子戸や大名門に当時の佇まいが残されています。江戸時代、保土ヶ谷宿には約70軒の旅籠がありましたが、本金子屋は建坪79坪、客室13室を誇る大規模なものでした。

関東大震災後に国道1号が7メートルほど拡幅される前は、現在の母屋の前に大名門と前庭がありました。貴重な大名門は後世に残すために建物の外壁にはめ込まれました。道路の広さと引き換えに、宿場の記憶を今に伝える工夫がここにあります。

案内板によると、敷地内には本格的な日本庭園(非公開)があるそうです。現在は子孫の方が居住されているため外観のみの見学となりますが、街道沿いで江戸の風情を体感できる貴重な史跡です。
茶屋本陣跡 ~ 大名が休憩した茶屋 ~
ここで横断歩道を渡って国道1号の北側を進むと「茶屋本陣」跡の碑が立つ場所があります。

「茶屋本陣」は大名や幕府役人が休憩するための格式高い茶屋(休憩所)です。
街道沿いにあった一般的な茶屋は、数坪~十数坪程度のこぢんまりとしてお休み処でしたが、茶屋本陣は建坪63坪と大きく、格式高い門構えを備えていたとされています。
また、茶屋本陣は参勤交代でやってくる大名の出迎えを行う場所としての役割も担っていました。

茶屋本陣の少し先に「茶屋町橋」という小さな橋が架かっています。江戸時代、この周辺には茶屋本陣だけでなく多くの茶屋が軒を連らねる「茶屋町」として賑わっていたと考えれます。
この場所は保土ヶ谷宿の西側の出入口である「上方見附」のすぐ手前に位置しており、その先には険しい難所として知られる「権太坂」も控えていたため、多くの旅人たちが一息入れる場所だったのでしょう。
一里塚跡 ~ 江戸から八里 ~
再び横断歩道を渡って国道1号の南側へ移動します。

国道1号と今井川の間が緑地帯になっています。

緑地帯の最初に築かれている塚が「一里塚」の復元です。
「一里塚」とは、一里(約4km)ごとに設置された距離の目安です。両側に土盛した小山を作り、その上に遠くからでも目立つよう榎などの木々が植えられていました。この付近にあった一里塚は日本橋から数えて8番目にあたります。
江戸時代の成人男性が1日で歩いた距離は10里(約40km)と言われています。
早朝に日本橋を出発した旅人が保土ヶ谷宿の茶屋で一休みしながら「次の宿場(戸塚)まであと2里(約8km)、もう一踏ん張りしよう!」と気合を入れていたことでしょう。

江戸時代に実在した一里塚は五間(約9m)四方の大きさで、現在の国道1号の車道上にありました。場所の制約から同じ大きさで復元することは出来ませんでしたが、塚の上には当時のように榎が植えられています。
上方見附跡 ~ 西の玄関口 ~

一里塚のすぐ隣には「上方見附」が復元されています。
「上方見附」とは宿場の京都(上方)側の出入口に設けられた施設のことで、ここから江戸方見附までの間が「宿内」とされていました。

「上方見附」は、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造で「土居」とも呼ばれており、宿場の防衛や治安維持・不審者の監視などの役割を担っていました。

東海道分間延絵図によると、上方見附はもう少し西側にあったようですが、場所の制約によって一里塚に隣接して復元されました。
外川神社・道祖神社 ~ 旅人たちの守護神 ~

一里塚・上方見附跡のすぐ脇に今井川に架かる「仙人橋」が架かっています。擬宝珠の装飾を施した古風な意匠の橋です。

仙人橋を渡った先の丘の上にある神社が「外川神社」です。

江戸時代末期、保土ヶ谷宿の「出羽三山講」の講元であった清宮與一が、羽黒山麓の「外川仙人大権現」の分霊を勧請し、自身の屋敷内に祀ったのが始まりです。明治2年の神仏分離令により日本武尊を主祭神とし、社名を「外川神社」と改めました。
古くから「小児の虫封じ」や「航海・交通の安全」に著しい御利益があるとされ、遠近から多くの参詣者が訪れました。

外川神社の右隣に鎮座している、趣ある木造社殿の神社は「道祖神社」です。道祖神社で祀られている道祖神は、境界の守護・疫病除け・旅行安全の神と伝えられており、かつて東海道を行き交った多くの旅人たちが安全を祈願したと考えれます。

ただし、「道祖神社」はもともとここにあったわけではなく、江戸時代には少し離れた旧東海道沿いにありました。 明治になって旧東海道と並走するように鉄道(現・JR東海道線)が敷設された際、そのルート上にあった「道祖神社」は外川神社の境内に移設されました。
まさに、陸上交通の近代化の歴史を見守ってきた神社なのです。
保土ヶ谷宿の松並木 ~ 街道松の名所が復活! ~

一里塚・上方見附跡・外川神社付近を起点として、旧東海道(国道1号)と今井川に沿いの約300メートルの遊歩道には東海道の松並木が復元されています。

かつて権太坂付近まで続いていた保土ケ谷宿の松並木は、時代とともにその姿を消していきました。
これを受け、区民が主体となって結成した「東海道保土ヶ谷宿松並木プロムナード実行委員会」が提案した復元事業が横浜市の “ ヨコハマ市民まち普請事業 ” に採択され、平成19年に松並木と一里塚、平成21年に上方見附が次々と復元・整備されたのです。


保土ヶ谷宿の街歩きはここまでなのですが、残念ながら、近くに駅がありません・
保土ヶ谷町2丁目のバス亭がありますので、バスに乗って戸塚方面を目指すか、来た道を引き返すか・・

旧東海道はまだまだ続きます。
健脚な方であれば、この先に待ち構える権太坂もきっと楽しく越えられるでしょう😊

無理せず、JR保土ヶ谷駅まで戻りました💦
保土ヶ谷宿の歴史を辿る街歩きはいかがでしたでしょうか。
貴重な旅籠の風情や美しい松並木など、この街には至る所に江戸の記憶が息づいています。ただ通り過ぎるだけでは気づかない、歴史のヒントを探しながら歩く時間は格別です。ぜひ皆さんも当時の旅人の息遣いを感じに、保土ヶ谷宿へ足を運んでみてくださいね。

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