今回は独特の建築美を誇る築地本願寺を起点に、活気あふれる築地場外市場や埋め立ての歴史を見守る波除神社、そして近代技術の結晶である勝鬨橋(かちどきばし)へと至るルートをご案内します。

東京メトロ築地駅 1番出口をスタートします🚶➡️

「築地」という地名は、文字通り「築いた地(埋め立て地)」であることに由来しています。
きっかけは1657年の明暦の大火です。当時、浅草にあった本願寺(現・築地本願寺)を再建するため、門徒たちが中心となって八丁堀の海を埋め立て、寺院を建てる土地を築き上げたのが始まりです。「土地を築く」という成り立ちがそのまま「築地」となりました。難航した工事を支えた波除神社の伝承も含め、まさに海から生まれた街を象徴する名前です。
築地本願寺

まず始めに築地本願寺を参拝しましょう。

築地本願寺は浄土真宗本願寺派の寺院です。元和3年(1617年)に浅草で創建されましたが、明暦の大火後に現在地へ移転しました。

最大の特徴は、日本を代表する建築家・伊東忠太が設計した古代インド仏教様式の外観です。昭和9年(1934年)に完成した本堂は国の重要文化財に指定されており、内部にはステンドグラスやパイプオルガンを備えるなど、和洋折衷の独創的な美しさを放ちます。
※築地本願寺は2026年12月まで保存修理工事中です。

当地に再建された当時の築地本願寺は荘厳な大伽藍の前に門前町が形成されていました。しかし、大正12年(1923年)の関東大震災による火災で焼失したため、現在の古代インド仏教建築の寺院に生まれ変わったのです。
なお、現在の本堂は北西方向(銀座方向)を向いていますが、江戸時代の本堂は南西方向(築地市場方向)を向いていました。当時の移動の主役は「船」であったため、海上交通の要所に顔を向けていたのです。

本堂の入口上部にあしらわれたステンドグラスの装飾が異国情緒を感じさせます。


本堂階段の欄干や親柱に見られる象・獅子・天馬(ペガサス)などの彫刻もインド様式を基調にした仏教建築の象徴的な要素です。
伊東忠太がインド仏教様式を取り入れた理由は主に3つあります。
- 仏教の源流であるインドへの回帰
伊東忠太は日本建築のルーツを探るためにアジアからヨーロッパまでを旅した建築家であり、「仏教伝来の源流であるインドのスタイルこそが、仏教寺院の真の姿である」と考え、原点回帰を目指した。 - 依頼主・大谷光瑞(こうずい)との共鳴
当時の浄土真宗本願寺派の門主であった大谷光瑞氏は、シルクロードへ探検隊を派遣するほどアジアの歴史に造詣が深い人物でした。「世界に通用する、これまでにない仏教寺院を作りたい」という光瑞氏の先取の気性に伊東忠太が共鳴した。 - 関東大震災の教訓による「不燃の石造建築」への挑戦
伝統的な日本の木造建築をそのまま石で再現しようとすると不自然さが残るため、最初からインドの建築様式を取り入れた。

単に「変わった形のお寺」というだけでなく、“ 仏教のルーツ ” や “ 震災からの復興 ” というポイントを理解して訪れると、貴重な重要文化財を見学が興味深いものになりますね。


築地本願寺の本堂は国指定重要文化財です。また、同時期に建設され、設計思想・意匠・材質が共通している正門・北門・南門・石塀も重要文化財の一部に含まれています。

築地本願寺ではお釈迦様の誕生日(4月8日)を祝う『はなまつり』という行事を、例年4月8日前後の土曜日または日曜日に開催しています。訪問時はちょうど『はなまつり』当日であったため、子供連れを含む多くの参拝者が訪れていました。
築地場外市場
今や世界的な観光グルメスポット

築地本願寺から晴海通りを挟んで築地四丁目交差点を渡ると築地場外市場があります。

築地場外市場は、2018年に豊洲へ移転した旧「築地市場(場内市場)」に隣接して発展した商店街&飲食店街です。卸売中心の場内に対し、場外はプロの買い出し人から一般客までを広く受け入れる「食の街」として歩んできました。
移転後も約400の専門店が軒を連ね、その活気は今も健在です。新鮮な魚介や寿司はもちろん、プロ御用達の調理道具、練り物、玉子焼き、乾物など、食に関するあらゆるものが揃います。

そのまま直進すると「もんぜき通り」という築地場外市場の顔とも言えるアーケード街になっています。この通りには、牛丼の「きつねや」やラーメンの「若葉」など、立ち食いスタイルの名店が並んでいます。
「門跡(もんぜき)」とは、皇族や公家が住職を務める格式高い寺院を指す称号のことです。江戸時代、築地本願寺のことを江戸の人々が敬意を込めて「築地門跡」と呼ばれていたことに由来します。

「もんぜき通り」と交差する広い通りは「波除通り」と呼ばれています。「波除通り」は「波除神社」へ一直線に伸びる道で、築地場外市場のメインストリートです。

波除通り沿いには、メディアでもよく紹介される玉子焼きの「山長(やまちょう)」や「松露(しょうろ)」、新鮮な海鮮丼の店などが集まっています。また、市場の新しいシンボルである「築地魚河岸」の建物もこの通りに面しています。

折角なので、細い通りも歩てみましょう。
日本人観光客もたくさんいますが、8割以上は外国人観光客ではないかという印象です。現在の築地場外市場は外国人観光客にとって「東京観光で外せない最優先スポット」といえるほどの爆発的な人気を誇っているのです。「築地=新鮮で旨い食材が集まっている場所」という世界的なブランド力の証とも言えます。

「すしざんまい本店」周辺の細い路地は身動きがとりづらいほどの混雑ぶりです。

波除通り沿いに建つ「築地魚河岸」は、築地市場が豊洲に移転した後も築地の活気と賑わいを将来に向けて継承するために作られた鮮魚市場です。ここに入っている約60店舗の多くは、現在豊洲市場で営業している仲卸業者なので「豊洲に行かなくても、築地でプロ品質の鮮魚や青果が買える」のが最大のメリットです。


「築地魚河岸」は海幸橋棟と小田原橋棟の2棟で構成され、2棟を結ぶ開放的なデッキは場外市場の賑わいを見渡せる絶好のフォトスポットです。

築地場外市場は食べ歩きも楽しいですが、ちゃんと座って食事したい方は、築地魚河岸・小田原橋棟3階にあるフードコートがおすすめです。
寺町だった時代の名残
観光客で賑わう築地場外市場を歩いていると、円正寺・称揚寺・妙泉寺といった寺院に遭遇します。これらの寺院は築地本願寺と深い関わりがあり、すべて築地本願寺と同じ浄土真宗本願寺派の寺院なのです。



1657年の明暦の大火の後、築地本願寺が浅草から現在地へ移転した際、門前には58ヶ寺もの子院が集まり、「寺町」が形成されました。現在の築地場外市場があるエリアは、かつてはその多くがこれらの寺院の境内地だったのです。
1923年の関東大震災後、多くの寺院は世田谷区や調布市などへ移転し、築地場外市場内に残る円正寺・称揚寺・妙泉寺と築地本願寺に隣接する晴海通り沿いの善林寺・法重寺を合わせた5つの寺院だけが築地にとどまりました。


元々、関東大震災以前の「東京の台所」は日本橋の川沿いにありました(日本橋魚河岸)
日本橋魚河岸が壊滅的な被害を受け、過密化した日本橋では再建が困難であったため、より広大な土地への移転が検討されることになります。
震災直後の12月、旧海軍省所有の土地だった築地(現在の築地場外市場やかつての場内市場がある場所)を借り受け、臨時の市場として営業を開始しました。これが築地市場の第一歩です。その後、近代的な市場としての整備が進められ、昭和10年(1935年)に「東京都中央卸売市場 築地本場」として正式に開場しました。
現在の築地場外市場は、かつての「お寺の境内地」に、市場をサポートする商店が集まって自然発生的にできた街です。格式高い築地本願寺の門前町から、活気あふれる食の街へ転換した歴史を知ると街歩きも奥深いものになりますね。
波除神社

波除神社は築地場外市場の端に鎮座する神社です。外国人観光客にも大人気ですね。

江戸時代初期、築地の埋め立て工事が激しい波に難航した際、海中から見つかった稲荷神の像を祀ったところ、波が収まり工事が完了したという伝説が名前の由来です。
「災難を除き、波を乗り切る」神様として、航海安全・厄除けの信仰を集めてきました。


波除神社の祭りは江戸時代から獅子祭りとして知られ、祭りの際には数多くの獅子頭が町を練り歩きました。現在でも毎年6月の「つきじ獅子祭」では「厄除け天井大獅子」(左)や「弁才天お歯黒獅子」(右)が巡行され、獅子祭りの伝統を伝えています。

また、食の街・築地らしく、「すし塚」が建立されています。
日本独自の食文化として発展し、今では世界中の人々に親しまれ、今日まで食生活に大きく貢献してきた「寿司」に対する感謝の念が込められており、多くの外国人観光客の記念撮影スポットとなっています。

境内には牛丼チェーン『吉野家』の石碑も立っています。これは築地と『吉野家』には深い縁があるためです。

明治32年に日本橋の魚河岸で開業した『吉野家』は、創業者・松田栄吉の出身地である大阪・吉野町より名付けられたそうです。関東大震災の影響により、大正15年に魚河岸とともに築地に移転した『吉野家』は、東京大空襲によって焼失したものの、終戦後すぐに屋台で営業を再開し、昭和34年に築地一号店を開店しました。
以来、市場で働くプロたちを相手に「はやい、うまい、やすい」を極限まで追求した吉野家の牛丼は、瞬く間に各地へ広がり、日本の国民食となりました。
世界を席巻するオレンジの看板のルーツは、ここ築地のプロたちの胃袋にあったのです。
軍艦操練所跡
波除神社から晴海通りへ出て勝鬨橋へ向かいます🚶➡️

波除通りと晴海通りが交差する築地六丁目交差点脇には、「軍艦操練所跡」の案内板が立っています。

軍艦操練所は、安政4年(1857年)に江戸幕府が築地に設置した海軍士官の養成機関です。ペリー来航による海防意識の高まりを受け、旗本や御家人に航海術や砲術を訓練するために作られました。あの勝海舟が頭取をつとめたことでも知られ、まさに近代日本海軍の礎となった場所です。

元治元年(1864年)に火災で焼失し、南隣りの松平安芸守蔵屋敷へ仮移転後し、慶応2年(1866年)には再び焼失して現在の旧浜離宮庭園の地へ移転しました。

その後、跡地には日本初の本格的な洋式ホテル「築地ホテル館」が建てられるなど、常に時代の最先端をゆく場所でした。現在は案内板が残るのみですが、国防と文明開化が交差した激動の歴史を今に伝える貴重な場所なのです。
勝鬨橋(かちどきばし)

晴海通りを進むとすぐに国指定重要文化財「勝鬨橋」が目に入ります。

橋を渡る手前に「かちどき 橋の資料館」(入館無料)に寄っていきましょう。

資料館の入口付近には「勝鬨の渡し碑」が立っています。
明治25年(1892年)、築地と対岸の月島を結ぶ渡し船「月島の渡し」が開設されましたが、交通需要の増加に対応するため、明治38年(1905年)に「勝鬨の渡し」が開設されました。「勝鬨」という名前は日露戦争の旅順陥落を祝して名付けられたものです。

昭和15年(1940年)に現在の勝鬨橋が開通したことで渡し船は役目を終えましたが、石碑は交通の変遷を物語る貴重な遺構となっています。

「かちどき橋の資料館」は、勝鬨橋の築地側にある旧変電所を改修した資料館です。

勝鬨橋は日本に現存する数少ない可動橋(跳開橋)の一つです。

昭和15年に開通した当初は隅田川を航行する船舶が多かったため、1日5回開閉していました。可動部は70度まで70秒で開きましたが、船が通る間、晴海通りは約20分間通行止めになりました。
やがてモータリゼーションの進展により、橋を渡る自動車の交通量が爆発的に増加すると、開閉による渋滞が深刻になりました。一方、隅田川の水運を利用する大型船は減少したため、開閉の頻度は昭和22年からは1日3回、昭和36年からは1日1回になり、昭和45年11月29日を最後に開閉を中止しています。


館内では、橋を動かしていた巨大な直流発電機や配電盤を間近で見学でき、当時の最新技術を体感できます。

また、100分の1の精巧な模型を使って跳開の様子を再現したり、貴重な設計図なども展示されており、水運が主役だった時代の東京の姿を詳しく学ぶことができます。


では、国指定重要文化財「勝鬨橋」を渡りましょう。

橋脚にある運転室や内部の機械室は、基本的には建設当時、および昭和45年に開閉を中止した当時のまま保存されています。(予約制の橋脚内見学ツアーも実施されています)

外観も建設当時の重厚なデザインが維持されており、歩道に設置されている信号機も実際に使われていたものがそのまま残されています。橋を開ける際は、まずサイレンが鳴り、この信号が赤に変わって通行を禁止していました。橋の稼働用電力を完全に停止して以降、光ることはなくなりましたが、撤去されずに歴史の証人として保存されています。

橋の中央部です。かつて、この可動部分が空へ向かって70度跳開していたのです。かつて2000トンもの巨体がダイナミックに動いていた時代の息遣いを感じることができます。

隅田川に目を落とすと、颯爽と進む「水上バス(遊覧船)」の姿も見られます。船上から重要文化財・勝鬨橋を見上げるリバーサイドビューも一度体験してみたいですね。

月島から築地方面の眺望です。昼間の姿も見応え十分ですが、夜のライトアップされた勝鬨橋もおすすめですよ。

都営大江戸線「勝どき駅」が本日のゴールです。
今回は築地本願寺から勝鬨橋までを歩きましたが、いかがでしたでしょうか。
現在、豊洲へ移転した築地市場の跡地では再開発工事が着々と進んでおり、約5万人収容の全天候型マルチスタジアムをはじめとする9棟の建物が建設される予定です。さらに、将来を見据えた「空飛ぶクルマ」の発着ポートもできるそうです。
「築かれた地(築地)」という名の通り、江戸時代に海を埋め立てて誕生したこの街は、今また「未来の東京を築く」という新たなフェーズへと進化しようとしています。
そんな途切れることなく進化し続ける街「築地」の今を是非散策してみてください。



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