東京・丸の内エリアには近代的な超高層ビルと重厚な名建築が共存する、日本随一の景観が広がっています。
かつての「一丁倫敦(ロンドン)」から「一丁ニューヨーク」、そして現代の「空中権活用」へと姿を変えてきたこの街は、まさに生きた近代建築の博物館です。
今回は、100尺の高さに揃えられた美しい軒高や、大切に継承された部材遺構を辿り、有楽町まで歩きます。
ビジネス街の喧騒の中に息づく「歴史の断層」を紐解いていきましょう。

東京駅丸の内北口からスタートしましょう🚶🏻➡️
この横断歩道、ニュースでよく見かけますよね。
赤レンガの東京駅舎からオフィス街へ向かうビジネスパーソンの動きが映し出すことができるため、特に「出勤風景」の定番スポットとなっています。
ただ、この日は休日だったので、のんびりした風景になっています。
日本工業倶楽部会館(登録有形文化財)

まず最初に向かうのは国登録有形文化財「日本工業倶楽部会館」です。
日本工業倶楽部は大正6年(1917年)に日本の実業家たちが結束して産業を発展させるための社交の場として設立されました。
ビルが完成したのは大正9年(1920年)で、随所に大正期に流行した幾何学的意匠(セセッション様式)が見られます。大正時代の華やかな雰囲気を今に伝える、非常に価値の高い歴史的建築物です。

正面入り口の真上(屋上付近)には「ハンマーを持つ男性」と「糸巻き持つ女性」の像が置かれています。
これは当時の日本の二大工業だった「鉱業」と「紡績業」を象徴しており、時代を映す象徴的なレリーフです。

昭和初期の世界恐慌や戦前・戦後の混乱を克服し、日本の復興や経済政策が話し合われる重要な舞台となったこの建物は平成15年(2003年)に建替えられています。
建替えの際、会館の南側部分をそのまま残し、その背後に高層ビル(三菱信託銀行本店ビル)を一体化する形がとられています。
丸の内の歴史的景観をどのように現代へ繋げるかという課題に対し、「部分保存」という画期的な手法で答えを出した建物なのです。

また、ビルの東側の壁面には「電話交換創始之地」と刻まれたプレートがはめ込まれており、この場所にかつて「東京電話交換局」があったことを示しています。
明治23年(1890年)12月16日、東京と横浜の間で日本初の電話交換業務が開始されました。
今のように直接番号を押してつながるのではなく、このビルにあった交換局に一度つながり、交換手が手作業でプラグを差し替えて相手に繋いでいました。
東京でわずか155件、横浜で42件という非常に限られた人(主に官公庁や大商店など)だけのサービスとして、電話の歴史が始まった場所でもあるのです。
東京銀行集会所跡の部材遺構


日本工業倶楽部会館から西へ100メートルの場所に東京銀行集会所跡の碑が立っています。
東京銀行集会所は、明治13年(1880年)に銀行間の連絡や手形交換業務を行う社交場として設立されました。
一万円札の顔にもなった渋沢栄一が設立を主導し、大正5年(1916年)竣工の旧会館は赤煉瓦の美しい意匠で知られました。

時は流れ、平成5年(1993年)には外壁と内装の一部を保存しつつ、「東京銀行協会ビルヂング」として建て替えられましたが、令和2年(2020年)には「みずほ丸の内タワー」として完全に近代的な意匠となりました。

しかし、現在でも外構舗装に当初の東京銀行集会所の原位置を示すとともに、西面2階のバルコニー手摺に使われていた石材と東京銀行協会ビルヂングのタイルの一部が保存されています。

現在も全国銀行協会が置かれ、この一帯が日本の金融の中心地であるという歴史的な役割はしっかり引き継がれています。
行幸通りから見る「丸ビル」「新丸ビル」「東京駅丸の内駅舎」

行幸通りを東京駅方面へ向かって進むと右手に「丸ビル」、左手に「新丸ビル」が見えます。
この美しい景観の裏には、かつて東京の街並みを決定づけた「100尺規制」というルールが深く関わっています。
1919年(大正8年)に制定された旧市街地建築物法により、建物の高さが31m(約100尺)に制限されたルールのことです。その目的は、防火対策・耐震性の確保・景観の統一です。
昭和初期の丸の内界隈は、この規制によってビルの高さが31mでピタリと揃い、ロンドンやパリのような重厚で均一な街並みが形成されました。
現在は規制緩和(容積率の移転制度など)によって、丸の内一帯は巨大な超高層ビルが建ち並んでいますが、新たに建て替えられた多くのビルは、かつての100尺規制を意識して地上31m付近で建物のデザインを切り替えたり、段差を設けたりしています。
これにより、超高層化が進んだ現代でも、歩行者の目線からは圧迫感が抑えられる工夫がされているのです。

実は東京駅丸の内駅舎も100尺規制の影響を受けています。
中央のドーム部分を除き、左右の駅舎部分はほぼ100尺のラインに合わせて設計されているのです。
KITTE丸の内(旧東京中央郵便局)

JPタワーの低層部である KITTE丸の内(旧東京中央郵便局)も、100尺規制の影響を非常に強く受けており、東京駅や丸ビルと並んでこの規制を現代に伝える象徴的な建物のひとつと言えます。
KITTE丸の内は、1933年(昭和8年)に竣工した旧東京中央郵便局の局舎を一部保存・再生したものです。
2013年に「JPタワー」として超高層化された際も、この歴史的な31mの部分を「基壇部」として残し、その上に新しい高層タワーを載せる形がとられました。(空中権の活用)
このように歴史的な低層建築を「腰」のように残し、その上に高層ビルを建てる手法は、専門用語ではありませんが通称「腰巻きビル」と呼ばれます。このKITTE丸の内(JPタワー)や最初に見た日本工業倶楽部会館(三菱信託銀行本店ビル)は「腰巻きビル」の代表例です。

KITTE丸の内の1階エスカレーター前にある「ぽすくま」は日本郵便の公式キャラクターです。
「郵便文化を親しみやすく伝えるための象徴」として作られた存在で、この「ぽすくま像」は人気のフォトスポットになっています📸✨

KITTE丸の内4階には旧東京中央郵便局長室があります。

床やガラス窓など様々な箇所に1931年の創建当時の素材を使用し、昭和初期の歴史を感じとれる貴重なこの空間となっています。

誰かを思いながら手紙を書ける空間。窓際にあるレトロなポストに投函することもできるようです。

局長のデスクと背後の窓越しに見える東京駅 丸の内駅舎は、当時の局長が見ていたであろう光景を眺めることがある特等席です。

KITTE丸の内の内部は開放感のある巨大な吹き抜けになっています。
また、5階部分の白いタイルの壁面はかつて「建物の外側」だった部分なのです。かつて丸の内の風雨にさらされていた『外壁』が、今は空調の効いた吹き抜けの『内壁』として、訪れる人を優しく包み込んでいます。

6階の屋上庭園「KITTEガーデン」は、緑豊かな憩いの場です。

東京駅丸の内駅舎や、丸の内の高層ビル群を一望できる丸の内エリア有数のビュースポットです!
東京駅丸の内駅舎の向こう側に建設中の「Torch Tower(トーチタワー)」も見えますね。
トーチタワーの竣工は2028年05月末予定。 高さ385mで、日本一高いビルになります。

数多くの在来線や新幹線が東京駅に発着する様子を眺めることができます。

丸の内の象徴である丸ビルと新丸ビル。ここ場所から見える美しい景観を生み出す鍵は、かつての「100尺(約31m)規制」です。
歴史的な低層部の高さを揃え、街並みに統一感を与えていることがよく分かりますね。
また、このラインから上へ大きく伸びる高層部は、規制緩和によって余った容積率(空中権)を活用して建てられました。歴史の記憶を継承しながらも、最新のオフィス機能を持つ超高層ビルへと進化させる。この手法が、丸の内の独自の魅力を創り出しているのです。
明治生命館(重要文化財)

明治生命館は、昭和9年(1934年)に明治生命保険(現・明治安田生命保険)の本社社屋として竣工しました。設計者は古典主義建築の第一人者である岡田信一郎で、5層分を貫く巨大なコリント式の列柱(10本の柱)が並ぶ、重厚で荘厳な建造物です。
明治生命館は、その建築的完成度の高さと、戦後のGHQによる接収(アメリカ極東空軍司令部として使用)といった歴史的背景から、平成9年(1997年)に、昭和の建造物としては初めて国の重要文化財に指定されました。
そして、この明治生命館こそが、「100尺規制」を戦前から今日までそのまま体現し続けている建築物です。

1階ロビーや一部の室は一般公開されており、内部の美しい装飾を見学することができます。

2階第一会議室は、日本の戦後処理方針を話し合う「対日理事会」の会場となった場所です。
昭和21年(1946年)4月5日に開催された第1回対日理事会では、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥がこの会議室で演説を行いました。
戦後日本の運命が決定された、歴史の生き証人とも言えるこの空間には深い歴史的意義があります。

天井は精緻な装飾で彩られています。
八角形の窪みの中に丸い花飾り(ロゼット石膏彫刻)で華麗に演出され、当時の日本の工芸技術の高さと重厚な西洋建築が融合した、荘厳な美しさを創り出しています。

明治生命館には当時の会議室・応接室・食堂などが一般公開され、資料・展示室では見どころや建設の足跡についても紹介されています。
また、館内には国宝7件、重要文化財84件を含む約6,500件の東洋古美術品を収蔵する「静嘉堂文庫美術館」もありますので、是非立ち寄っていきたいスポットです。
三菱一号館

三菱一号館は明治27年(1894年)に竣工した丸の内で最初のオフィスビルです。
初代の三菱一号館は、イギリス人建築家 ジョサイア・コンドル設計による3階建ての煉瓦造りでした。
その後、老朽化に伴い昭和43年(1968年)に解体されましたが、平成21年(2009年)に美術館として復元されました。
三菱一号館が竣工した明治27年は100尺規制はまだありませんでしたが、高さは100尺をはるかに下回っています。これは、地震大国である日本において100尺を超える煉瓦造りの建物を建てることが現実的ではなかったためです。

明治時代後半の丸の内では、三菱一号館にはじまり、次々に煉瓦造りの重厚な建物が建設されました。その街並みはロンドンの街並みを彷彿とさせたことから「一丁倫敦(いっちょうろんどん)」と呼ばれました。
当時の最新技術と西洋文化が凝縮された丸の内エリアは、日本の近代化を視覚的に象徴する存在となっていったのです。
しかし、大正時代に入り日本経済が急速に発展すると、三菱一号館のような小規模なビルでは、押し寄せる企業のオフィス需要を賄いきれなくなりました。そんな中、1910年代後半からアメリカの最新の建築技術(鉄骨構造など)が導入され、1923年に完成した旧「丸ビル(丸ノ内ビルヂング)」がその象徴となりました。
- ロンドン型:重厚だが、壁が厚く内部空間が狭い。
- ニューヨーク型:鉄骨造や鉄筋コンクリート造により、広い床面積と高い天井、そして高層化が可能。
そうして、丸の内の街並みは「一丁倫敦」の時代から「一丁ニューヨーク」の時代へと転換していったのです。

三菱一号館の中庭(一号館広場)は、高層ビルが立ち並ぶ丸の内のおける憩いの場になっています。
数十種類の樹木や草花が植えられた庭園と赤煉瓦が調和してクラシックな景観を創り出しています。
旧第一生命館(DNタワー21)

昭和13年(1938年)に竣工した旧第一生命館は、明治生命館と並び、戦前・戦後の歴史を象徴する極めて重要な建築物として東京都選定歴史的建造物に認定されています。
装飾豊かな明治生命館に対し、こちらは直線的で力強い「ネオ・ルネサンス様式」を採用しており、当時のオフィスビルとして最高峰の機能美を誇りました。

爆撃に耐える堅牢な建築物で、東京大空襲でもほぼ無傷だったそうです。
終戦直後に連合国最高司令官総司令部(GHQ)の本部がおかれ、現在もマッカーサー総司令官の執務室が当時のまま残されています。

マッカーサー総司令官が1945年9月から1951年4月まで執務を行った「マッカーサー記念室」ですが、残念ながら、通常一般公開されていません。
※下記サイトからバーチャルビューでマッカーサー記念室を様子を見ることができます。

第一生命館もまた、当時の高さ制限である100尺(約31m)をフルに活用して建てられました。
目の前が皇居(当時は宮城)のお濠であったことが、ここがGHQ本部に選ばれた大きな理由の一つと言われています。

「第一生命館」は、平成7年(1995年)に隣接する「農林中央金庫有楽町ビル」と一体化させた上で中間に高層階部分を増築し、「DNタワー21」として改装されました。
この建物は「一丁ニューヨーク」時代の威厳を今に伝える外観を持ちながら、内部は最新のオフィス機能が融合した、丸の内・日比谷エリアの象徴的な建物の一つなのです。
JR有楽町駅

東京駅の一つ隣にある有楽町駅が本日のゴールです。
丸の内に残された歴史の面影と名建築を辿る散歩はいかがでしたか。
空中権の活用によって守られた名建築たちは、単なる古い建物ではなく、日本の近代化と戦後史を雄弁に物語る「生きた教科書」とも言えます。
次に丸の内を歩く時は、ふと視線を上げてみてください。空へと伸びるビルと歴史の断層が織りなす、この街だけの「高さ」を感じられるはずです。


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