徳川家康が江戸に入府し、のちの100万人都市へと繋がる大改造が始まった時代。当時、急速に埋め立てが進められた江戸の町には、ある深刻な死活問題がありました。それは、「井戸を掘っても海水の塩分が混じり、まともな飲み水が出ない」ということでした。
この致命的な水の危機を救うべく誕生したのが、日本最古の都市水道である『神田上水』です。
今回は、その命の水の始まりである「関口大洗堰」をスタートし、かつてオープンな水路が走っていた「巻石通り」へ。さらに、上水を引き込んでいた水戸徳川家の名園「小石川後楽園」を巡り、最後は地下に隠された職人たちの知恵と本物の遺構に出会える「水道歴史館」へと向かいます。
現代の東京の片隅にひっそりと息づく“神田上水の痕跡”を追いかけて、知的好奇心をくすぐる歴史散歩に出かけてみましょう。

都電荒川線・早稲田駅から神田上水路の史跡が残る文京区・関口を目指します🚶➡️
ちなみに「早稲田」という地名は、文字通り「早く実る稲を植えた田んぼ」に由来します。江戸時代、神田川沿いの低地では台風による水害で稲が被害を受けることがあり、村人たちは早生品種の稲を植えて早めに収穫する工夫を行ったのです。

早稲田駅を北へ進むとすぐに神田川に架かる「豊橋」が見えます。この付近は桜並木が有名で、春には多くの人で賑わいます。

神田川は、三鷹市の井の頭恩賜公園内にある井の頭池を水源として東へ流れる一級河川です。
神田川と言えば、フォークバンド・かぐや姫のヒット曲『神田川』が有名ですね。作詞家の喜多条忠が早稲田大学在学中に恋人と神田川近くのアパートで暮らした思い出を歌詞にした昭和の大ヒット曲です♪

神田川の流れに沿って、緑豊かな遊歩道を下流へ向かって進みます。

しばらく進むと、肥後細川庭園(大名庭園)の前に出ます。目白台の自然を活かした池泉回遊式庭園を無料で見学できる散策スポットですが、今回のテーマと合わないのでまたの機会に・・
そのまま神田川に沿って、「水神社」を目指しましょう🚶➡️
水神社 ~ 神田上水の守護神 ~

最初の目的地「水神社」に到着しました。
水神社の創建年代は不詳ですが、“神田上水の守護神”として古くから篤く信仰されてきた神社です。

徳川家康の命で神田上水が開かれた際、水神が八幡宮社司の夢枕に立ち、「我をこの地に祀らば堰の守護神となり、江戸の町を安泰にしよう」と告げたことから創建されたという伝承が残っています。そのため、神田上水の恩恵を直接受けた神田や日本橋方面の住民から多くの参詣を集めました。

江戸時代のこの周辺は、目の前に早稲田の田んぼが広がり、後ろには目白台の椿山を控え、西には美しい富士山を望むことができる風光明媚な行楽地としても人気の高い場所だったそうです😊
関口芭蕉庵 ~ 改修工事に携わった松尾芭蕉の住まい ~
水神社で参拝を終えたら、胸突坂という急坂を挟んだ東側にある「関口芭蕉庵」を見学しましょう。

ここは江戸時代の俳人・松尾芭蕉が、延宝5年(1677年)から延宝8年(1680年)まで、神田上水の改修工事に携わった際に住んでいたとされる場所です。まだ俳聖として名を馳せる前の芭蕉(当時の俳号は「桃青(とうせい)」)は、十分な経済力がなかったのでしょう。
当時の芭蕉は、神田川の大洗堰を見下ろす高台にあった「水番屋」に寝泊まりしていたそうです。後に芭蕉を慕う人々によってここに「龍隠庵」という庵が建てられ、これが現在の「関口芭蕉庵」へと繋がっています。

関口芭蕉庵は無料で見学できますが、普段は正門は閉ざされており、出入りは横の通用口からになります。
「開庵中です。木戸を開けてお入りください」と掲示されていれば入れます👌
【開園時間】10時00分~16時00分
【休園日】月・火曜日、年末・年始
【入園料】無料

通用口の木戸を開けて中へ入ると、東京の真ん中とは思えない静寂に包まれています。

かなりの大きさがありますが、上の方は立入禁止になっています。

崖線の高低差を生かした緑豊かな庭園です。足元が滑りやすいので気を付けましょう。

庭園の中央には瓢箪池(ひょうたんいけ)が配置されています。新緑の青もみじに囲まれた静かな佇まいです。

瓢箪池の傍には芭蕉の真筆とされる文字を刻んだ句碑が立っています。
「古池や蛙飛びこむ水の音」
この句は芭蕉の代表作として知られているだけでなく、俳句の代名詞とも言える有名な句ですね。

現在の芭蕉庵は、俳句会など伝統文化を嗜む場として貸し出されているようです。かつて芭蕉が暮らしたまさにその場所で、現代の俳人たちが集まり、同じように四季の移ろいを感じながら句を詠み合う “今も生きている文学の拠点 ”です。

文学のイメージが強い芭蕉ですが、実は江戸の重要なインフラ事業を支えた技術者でもあった、そんな意外な歴史の一面を今に伝える貴重なスポットです✨
神田上水 取水口 大洗堰跡 ~ 上水路の始点 ~
次の目的地「大洗堰跡」へ向かいます🚶➡️

左手には「ホテル椿山荘東京」、右手には神田川の水流を眺めながら進みます。
この辺りはかつて椿が自生する景勝地だったため「椿山(つばきやま)」と呼ばれ、江戸時代には神田上水の大洗堰や早稲田の田園風景を一望できる特等席でした。

明治に入り、この景観に惚れ込んだ元勲・山縣有朋が私財を投じて自らの邸宅と庭園を築き、「椿山荘(ちんざんそう)」と名付けたそうです。

神田上水 取水口 大洗堰跡がある江戸川公園に到着です。

江戸川公園は神田川沿いにある東西に細長い公園です。
この付近を流れる神田川が、昭和中期までは「江戸川」と呼ばれていたため、神田川公園ではなく「江戸川公園」という名前になったそうです。


公園の西端から神田川に架かる「大滝橋」の袂に「神田上水 取水口 大洗堰跡」の案内板があります。
文京区の史跡に指定されています。

かつてここに建設された大洗堰(石造りの大きな堰)は、ここで神田川の水をせき止めて水位を上げ、上水を水戸藩邸(現・小石川後楽園)を経由して神田や日本橋の町屋へと給水する「取水口」として機能していました。
![松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[12],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館デジタルコレクション](https://machiaruki.blog/wp-content/uploads/2026/05/54-digidepo_2563391_0026-1024x722.jpg)
当時の様子は江戸名所図会など多くの絵画にも残されています。
2段階の滝が描かれていますが、1段階目の滝の奥に描かれた柵で囲まれたところが神田上水の取水口と思われます。取水口から取り込まれた上水は、神田川の北側(目白台の木々が生い茂る崖の下)に作られた人工の水路を通り、神田川と並行するように流れていきます。
一方、余水は滝となって神田川に落ちています。雨が降るとダイナミックな大滝になったのでしょう。
左下の茶屋に集まる江戸の涼み客たちは、この巨大なインフラ施設を眺めながら『今日の神田川は活きがいいねぇ』なんてお茶を飲んでいたのかもしれませんね🧉
大洗堰は昭和初期に撤去されましたが、日本最古の上水道である神田上水の水路は、この大洗堰から始まっていたのです。

なお、この付近の住所は文京区 関口であるため、一般的に「関口大洗堰跡」とも呼ばれています。また、「関口」という地名の由来は、神田川を“せき止める堰”があったからという説が有力です。
神田上水 取水口の石柱 ~ 当時から残る史跡 ~


江戸川公園には、かつての神田上水路を模したと思われる石組みの池がつくられています。

そして、池の東端部にはかつて大洗堰で使用されていた石柱が移設されています。(神田上水取水口の石柱)

この史跡は、上水の流水量を調節するための「角落」という板をはめ込むための石柱で、当時のものです。

石柱のすぐ傍には大洗堰の解説文と、かつて存在した「大洗堰の由来碑」の碑文が設置されており、当時の記憶を今に伝えています。

ちなみに、江戸川公園の北側にそびえる石垣は、目白台の住宅地や江戸川公園を整備した際に組み上げられたものであり、江戸時代のものではありません。しかし、ただのコンクリートの壁でなく石垣にした点は、かつての大洗堰の歴史的景観に配慮したものなのかも知れませんね😌

引き続き、神田川沿いを東へ向かって散策しましょう🚶➡️

江戸川公園の東端まで来ると、神田川は江戸川橋の下を通ります。しばらくの間、神田川から少しだけ離れて神田上水跡を辿っていくことにしましょう。
巻石通り ~ 神田上水の流路 ~

江戸川公園を出て、江戸川橋通りの横断歩道を渡り、「巻石通り」に入ります。

巻石通りのスタート地点には神田上水の案内板があります。

大洗堰で水位を上げた上水は、現在の「巻石通り」を通って小石川後楽園に流れていました。
ここは関口大洗堰から約500mの地点で、ここから小石川後楽園までの約2kmが「巻石通り」です。
明治10年頃に、神田上水の白堀(蓋のない地上の水路) の水質保全を目的として白堀に石蓋を巻くように被せる改造が行われました。「巻石通り」という名前は水路が石で巻かれたことが由来になっています。
神田上水 旧白堀跡

しばらく進むと左手に文京総合福祉センターの建物が現れます。

ここには「神田上水・旧白堀跡」の遺跡が展示されています。

この遺跡は、文京総合福祉センター建設工事に伴い、平成23年から24年にかけて実施された発掘調査で見つかったものです。
ガラス張りになった地面の下に、江戸時代に整備された神田上水の水路を見ることができます。この遺構は、江戸・東京の上水道の歴史を理解する上で大変貴重なものです。(日差しがある時は見えずらいです💦)

地名にも「水道」が登場

もともと、この辺りは「小日向村」と呼ばれていましたが、神田上水という重要なインフラ施設が出来たことで「小日向水道町」となりました。そして、明治41年になると、巻石通り(神田上水路)を境に北側の高台が「小日向」、南側の低地が「水道」という住居表示になりました。


江戸市中の2~3割におよぶ範囲の飲料水や生活用水を供給した『命の水路』が地名にも残されているのです。
蛇行する流路

巻石通りを歩いていると、道が川のように心地よく蛇行していることに気づきます。

これは、重力を利用して遠方まで水を運ぶために、等高線に沿って慎重に勾配を計算して水路を作ったためであると考えられます。
寺町と徳川慶喜公屋敷跡




巻石通り沿いには寺院が建ち並ぶ寺町が形成されています。これは神田上水とともに発展した小日向水道町という町の歴史と関連しているのでしょうか。


また、徳川慶喜公の屋敷跡もあります。最後の将軍となった徳川慶喜公は、明治34年にこの地に移り住み、大正2年に波乱の生涯と閉じたのです。
神田上水との関連性は無さそうですが、街歩きのルートとして飽きない街並みが続きます🚶➡️

さらに、金富小学校前の案内板によると、この付近には狂歌師・太田南畝や小説家・永井荷風ら文人も暮らしていたそうです。

こちらの案内板は神田上水路の流路が分かりやすく表現されています。
このあと、神田上水は小石川後楽園を通り抜け、水道橋の東側に設置された掛樋を渡ります。
小石川後楽園 ~ 神田上水跡を地上で確認 ~

小石川後楽園の西門に到着しました。神田上水の痕跡は残されているのでしょうか。

小石川後楽園は、江戸時代初期の寛永6年(1629年)に水戸徳川家の江戸上屋敷内に造られた都内最古級の大名庭園で、池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」として知られています。
そして、「神田上水跡」も地図にちゃんと載ってますね!

では、入園してみましょう。(入園料:大人300円、65歳以上150円)

庭園の北西部にある「円月橋」の袂まで来ました。「円月橋」は明の儒学者・朱舜水が設計した中国様式の石橋で、石造アーチ橋として国内最古のうちの一つです。

かつて、この「円月橋」の下を流れていた水こそが「神田上水」です!

園内の流路を辿ってみましょう。


神田上水は小石川後楽園の北側を西から東へ流れていました。

下流(東)から上流(西)を撮影しているため、午後は逆光になります☀️

ついに、「神田上水跡」の案内板を発見!

そして、そのまま園外へ抜けていきます。
現在、小石川後楽園の東側には東京ドームが建っていますが、江戸時代は水戸藩上屋敷の広大な敷地が広がっており、藩主や家臣たちの生活の場でした。美しい大名庭園を形成する「景観用水」から、藩邸内の「生活用水・防火用水」へと役割を変化させながら流れていたのですね。
水道橋 ~ 神田上水が名前の由来 ~
水戸藩上屋敷を通り抜けた神田上水は暗渠(地下の水路)となり、現在の「水道橋」付近から外堀通りの坂を下りました。

神田川に架かる「水道橋」は、東京ドームの最寄駅「JR水道橋駅」の東口を出てすぐの場所にある人通りが多い橋です。この「水道橋」という名前は、かつてこの橋の下流側に神田上水の掛樋(水が渡る橋)があったことに由来します。
![松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[1] (出典: 国立国会図書館デジタルコレクション)](https://machiaruki.blog/wp-content/uploads/2026/05/177-digidepo_2563380_0053-1024x705.jpg)
江戸名所図会には、神田上水の「掛樋(水が渡る橋)」の奥(上流側)に、アーチ型の「水道橋(人が渡る橋)」が描かれています。


現在の神田川に掛樋は残っていませんが、水道橋の欄干には名前の由来を記したレリーフが設置されており、江戸時代の記憶を今に伝えています。
神田上水 掛樋跡の碑 ~ 江戸の生活を支えた水の橋 ~

水道橋から外堀通りを130メートルほど進むと、神田上水の懸樋が実際に架かっていた場所を示す歴史的な記念碑があります。
かつてここにあった掛樋は明治34年(1901年)まで、神田・日本橋方面に飲み水を供給し続けました。

また、先ほど江戸名所図会でも確認しましたが、この場所は江戸を代表する景観として親しまれ、多くの浮世絵の題材にもなりました。江戸の町を支える最先端のインフラを間近で見た当時の人々は、「自分たちの暮らしを支える水がここを通っているのだ」という誇らしさや、大都市ならではの機能美に対する感心の念を抱いていたのではないでしょうか。
東京都水道歴史館
散歩の締めくくりは東京都水道歴史館です。

東京都水道歴史館では、江戸時代から400年続く東京の水道の歴史と、安全でおいしい水を届けるための水道の技術・設備に関わる展示が無料で公開されています。今回の散歩のテーマ「神田上水」をはじめとする江戸上水の歴史や仕組みについても詳しく紹介されていますよ。

最大の見どころは、丸の内三丁目付近の地下から発掘された「木樋」の実物展示です。
神田川の懸樋を渡った水は、こうした地下のネットワークを通って、大名屋敷や長屋の井戸へと届けられていました。何百年も前の職人技が、今もこうして目の前で見られるのは感動的ですね😲

そして、江戸時代の庶民の暮らしを体感できる長屋の再現エリアも見応えがあります。
当時、地下の木樋を通ってきた水は上水井戸に溜まる仕組みになっており、上水井戸は共同で使用されていました。この井戸端を中心にして、当時の人々の温かいコミュニティや賑やかな日常があったことがリアルに伝わってくる空間です。

東京都水道歴史館の裏手にある本郷給水所公苑にも神田上水の貴重な遺跡が移築復元されています✨

この遺跡は本郷一丁目付近(多くの浮世絵に描かれた掛樋の少し手前)で発掘された石樋です。
400年近く土の中に眠りながらも、往時の姿をとどめていたそうです。この遺跡の前に立つと、江戸の都市基盤を支えた職人たちの並々ならぬ熱意が感じられます。

石樋の隣には巻石通りで発見された白堀の護岸に使われていた石積みの一部が展示されています。
左側の石積みは江戸時代中期のもの、右側は幕末~明治時代のものです。また、右側の手前に置かれている白っぽい石は、清浄を保つための明治時代の蓋石です。時代に合わせて進化した神田上水の変遷を間近で学べる貴重なスポットと言えるでしょう😊
※展示の画像は東京都水道歴史館様に了承を得て掲載しております。
今回の歴史散歩はここまでです。
「井戸を掘っても塩水が出る」という過酷な条件を、自然の物理法則と緻密な技術で克服した神田上水。私たちが今、何気なく歩いている東京の道路や高低差には、400年前の先人たちが大都市を支えようとした執念とドラマが静かに隠されています。
蛇口をひねれば当たり前に水が出る現代だからこそ、足元に眠る「命の水の記憶」を探して、あなたも歴史の足跡を辿る街歩きに出かけてみませんか。


にほんブログ村
